【吉田家】徳島県板野郡松島村→北海道上川郡神楽村(旭川市)→多寄村(名寄市)→川上郡熊牛村(標茶町)
父の母の家系【吉田家】の北海道での歴史は、高祖父・吉田幸平(1877~1946)が徳島県板野郡松島村から北海道上川郡神楽村(現旭川市)に入植したことに始まります。
妻・タケと四男三女と共にやってきました。
戸籍上で最も古い名は、幸平の義父・吉田安蔵の父・吉田傅蔵です。幸平は安原家からの養子でした。妻・タケの父が吉田安蔵です。
徳島県から北海道上川郡神楽村字忠別御料地に入植したのが明治38(1905)年。
下記資料によると、明治38年の徳島県板野郡から北海道への入植者は403人とのこと。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjhg1948/38/5/38_5_387/_pdf
その後、多寄村字風連別御料地に移住したのが明治43(1910)年。
1920年に「神楽村御料地争議」というのがあったらしいですが、
年代的に関係なさそうですね。
その後、川上郡熊牛村に移住したのが大正7(1918)年。
この頃には孫8人(祖母・妙子を含む)を加えて戸籍上は21人です。
ただ、標茶町史考(後編)によると、大正6年の入植者4人の中に吉田幸平の名があります。明治時代の山梨県などからの団体入植者は熊牛村の地味の劣悪さと悪天候による凶作により定着しなかったそうですが、大正時代の入植者は道内開拓地より転入した者が多かったそうで、開拓の経験があったため自立精神に富み、定着率が高かったそうです。
同じく標茶町史考に曾祖父・吉田東一の言葉が書かれていました。磯分内市街の防風林北方に入植した東一は「楊や榛の切り株がいくつも残っており、その間に畦らしい跡もあったが、小灌木や雑草に覆われていて他と見境がつかなかった」と入植当時の状況を語ったそうです。
そして、もう一つ、標茶町最初のサイロを建設したとして、昭和16年の写真が標茶町史考に載っていました。誰が東一なのかは不明ですが、この時祖母・妙子は12才なので、制服をきた女の子がだぶんそうです。なんとなく面影あります。
その後、妙子は祖父・平間太四郎と結婚しました。
<吉田家直系譜>
吉田傅蔵→吉田安蔵→吉田(安原)幸平→吉田東一→平間妙子→父→私