【小川家】小川新十郎の話
母方の祖母の家系・小川家についてです。
戸籍で最も遡れたのが、高祖父・小川又次郎の父・小川又兵衛の父である小川新十郎でした。
そこで「小川新十郎」で検索してみたら、以下のページがヒットしました。
なんと「芸藩通志」に小川家についての記載があるとのことでした。
芸藩通志とは1825年(文政8年)に完成した安芸国広島藩の地誌です。
これによると、
小川家:切田村、先祖は小川民部成国、天文の初め、北村に住す
切田村
「芸藩通志」に「もと霧多村と書しといえど、仮字なるべし。慶長中よりの文書皆切田村と見ゆ」とある。
「芸藩通志」によれば、戸数54、人口248、牛20。
村役人一覧
庄屋 小川新十郎(枇杷垣内) 安永9年、文化12年(1829年)
袴御免 小川組平太(枇杷垣内)天保12年袴着用
引受 小川新十郎(枇杷垣内)
庄屋 小川組平太(枇杷垣内)天保2年
割庄屋格 小川組平太(枇杷垣内)文久2年
庄屋 小川禎蔵(枇杷垣内) 安政4年
社倉十人組頭取 藤蔵 文化12年(1829年)
この「枇杷垣内」というのは屋号だそうです。
最近お知り合いになれた、広島県の小川家の方から教えていただきました。
叔母から家系について調べている親族がいると聞いたので、思い切ってお手紙を出してみた所、幸運にも繋がることができました。
その方のお父様(祖母のいとこ)が詳しく調べておられたものを、「小川家の先祖」という数十ページもの冊子にまとめられており、そちらを送って頂きました。
この切田という土地には小川姓がたくさん住んでいるため、屋号で呼び合っていたそうで、高祖父・小川又次郎の父・又兵衛は分家してから「今垣内(イマガーチ)」と名乗っていたそうです。
以下も教えていただいた公文書の内容です。
文政五年二月賀茂郡国郡誌御用旧家書抜辻寄帳によれば
橘姓に而天文之頃小川民部成國霧田村に来住新十郎迄拾代弐百八拾年余子孫相続由緒所持仕候寛永の頃より代々御役相勤申候
芸藩通志「故家」の項によれば
切田村小川氏
先祖小川民部成國天文の初め此の村に住す 第四世の孫清左衛門より世々里職に勤む
芸藩通志「村里」の項によれば
切田村
もとは霧多村と書しといへど假字なるべし慶長中よりの文書皆切田村と見ゆ廣五町餘り袤十五町此の地北は高山東西は平田なり南に黒瀬川あり飛郷一所兼沢村にあり
十七町一段四畝二十四歩 百五十五石
五十四戸 二百四十八人
牛 二十隻
賀茂郡役付諸家名録
切田村 枇杷垣内 小川氏
新十郎
割庄屋格
文化十二年より天保元年まで 切田村庄屋
三升原市立御用懸り
野路引受役
安政六年二月六日歿 嗣子祖平太
本家の小川家は戦国時代から江戸時代、明治の初めまで代々切田村の庄屋をつとめていました。
小川家に代々伝わる家系図によると新十郎が小川家10代目、その先12代前まで遡れています。また、先祖・小川民部成國は太平記にも出てくるある武将に繋がるという言い伝えが残っているそうです。ただ、そのへんは確かなことが言えないためブログでは差し控えます。
ロマンですね。ロマン溢れます。
私から数えると18代前までご先祖の名前が分かったことになります。
平間家もそこまでとは言いませんが、もう少し遡れたらいいなと思い、
この年末を狙って、同姓の方数名にお手紙を出しました。
お正月の話題に上がって、返信もらえる可能性が増えるかもと思ったからです。
そろそろ届いていると思いますが、まだお電話などは頂けていませんね。。