【齋藤家】山形県飽海郡山寺村→(北海道十勝郡浦幌村)→(釧路市大字釧路村字茂尻矢)→釧路市川上町

妻の祖母の家系・齋藤家です。

 

北海道での齋藤家の歴史は少し複雑です。

戸籍上では妻の曾祖母・齊藤志んが昭和28年に山形県飽海郡の戸籍から北海道釧路市川上町に新たに戸籍を作り移住したように読み取れます。

釧路市川上町の戸籍で齋藤→齊藤になってる。)

この戸籍には志んの夫、つまり妻の曾祖父の名前がありません。

移住前の山形県の戸籍には曾祖父・齋藤岩治の名がありますが、

昭和2年に北海道釧路市で亡くなっています。

 

謎が多いので、妻のお母さんに話を聞いたところ、

齋藤岩治と志んは北海道十勝郡浦幌村の浦幌炭鉱で出会ったそうです。

志んは炭鉱の食堂で働いていたとのこと。

2人は大正7年に結婚しているので、その頃には北海道に移住していたと思われます。

下のリンク先によると

大正7(1918)年、浦幌炭鉱は大和鉱業(株)(平林甚輔)によって開発されました。

とのことなので、

2人は炭鉱が開かれたのと同時に、そこで働くために移住したのでしょう。

www.santankushiro.com

妻の家系は炭鉱絡みでの移住が多いですね。

 

そして2人の間には三男一女(夭折含む)の子供たちがいることが、

山形県の戸籍から分かりますが、この中には妻の祖母・敏子は含まれません。

敏子は釧路市川上町の戸籍に初めて出てきますが、

敏子が生まれた昭和5年には岩治は亡くなっており、戸籍にも父親の記載はありません。

 

ここでまた妻のお母さんに頼ります。

敏子以下の二男三女の父は下屋敷熊五郎という人だそうです。

戸籍をよく見てみると、1ヶ所だけその名が記載されていました。

岩治と志んの長女トヨが16歳で亡くなった際の届出人として、「同居者下屋敷熊五郎」と書かれていました。

 

なぜ志んと熊五郎は結婚しなかったのか、

なぜ志んは旧姓・庄司に戻らず齋藤のままだったのかは、今となっては分かりません。

(志んの旧姓・庄司と妻の父の家系の庄司が関係あるのかはまだ不明です。)

 

あと戸籍には出てきませんが、熊五郎には一人連れ子がいたそうです。

その子は岩手県の「日陰茂井」家の養子になったそうです。

日陰茂井という苗字初めて聞きました。岩手県に茂井という地名があって、そこに日陰になっている場所があったので、日陰茂井だそうです。

 

戸籍から分かる最も古い名は7世の祖父(高祖父の父の父の父)・齋藤三四郎です。

ここから3代三四郎を襲名しています。

ここもややこしくて、一番古い戸籍の戸主は高祖父・齋藤治吉なんですが

その母「さくよ」の欄に「亡父三四郎妻」「亡祖父三四郎長女」、祖母「いの」の欄に「亡祖父三四郎妻」「亡曾祖父三四郎長女」となっています。

治吉-----三四郎

   Lさくよ-----三四郎

            Lいの -----三四郎

なので、7世の祖父・齋藤三四郎はホントは高祖父の母の母の父で、7世も6世も5世も結婚後に三四郎に改名したのかもしれません。

 お墓とか過去帳など調べないとホントのところは分かりません。

 

<齋藤家直系譜>

齋藤三四郎→齋藤三四郎→齋藤三四郎→齋藤治吉→齋藤岩治/(下屋敷熊五郎)→齊藤敏子→義母→妻

 

血筋的には齋藤家ではなく下屋敷家になるんですが、戸籍に入っていないため請求できないのが残念です。