海に囲まれて ここで生まれた♪
小田和正のそんな唄がありますね。
戸籍謄本には出生した場所、死亡した場所が書かれていますが、
ほとんどが「本籍に於いて出生 / 死亡」だったり、本籍ではない場所なら住所で「どこどこに於いて出生 / 死亡」というのが殆どですが、いくつか珍しい場所のご先祖がいたので、書き出してみます。
●庄司正雄(妻の曾祖母の兄)
大正8年11月29日 新潟県北浦原郡新発田駅官舎に於いて死亡
●庄司ヨシ(妻の曾祖母の妹の子)
大正14年3月11日 新潟県岩船郡村上ヶ鉄道官舎第七号二戸に於いて出生
●齋藤静雄(妻の祖母の兄)
大正7年3月28日 新潟県新発田駅構内鉄道院官舎第四号の二戸に於いて出生
駅で働いていたということでしょうか?
鉄道員官舎については調査中です。
●齋藤春夫(妻の祖母の兄)
大正9年8月13日 北海道十勝郡浦幌村字上常室浦幌炭鉱鉱業所に於いて出生
大正11年8月3日 北海道十勝郡浦幌村大字浦幌村字下浦幌上常室浦幌炭鉱宿舎に於いて死亡
上の齋藤静雄と兄弟なんですが、こちらは浦幌炭鉱で生まれています。
妻の高祖父母は静雄が生まれた2年後には北海道に移住していて浦幌炭鉱で働いていたという感じでしょうか?
●庄司祐(妻の曾祖母のいとこの子)
大正2年5月11日 満州国奉天省本溪湖市宮原遍共榮街四番地の十一号に於いて出生
普通の住所ですが、唯一の満州国なので。
本溪湖市は「黒く燃える町」と言われた炭鉱と製鉄所のある町だそうです。
媒鉄公司、洋灰公司、特殊鋼株式会社、鉄道株式会社など製鉄と炭坑の街として栄え沢山の日本人が住んでいたらしいですね。
ここからは戦死したご先祖達。 終戦は昭和20年8月15日。
戦争関係なら資料が残っていそうなので、おいおい詳しく調べてみたいです。
●庄司守(妻の曾祖母のいとこ)
昭和20年8月17日 満州黒河省孫呉県第一秋月山で戦死 新潟県知事岡田正平報告
上の庄司祐の父です。
●齋藤光雄(妻の祖母の兄)
昭和20年7月15日 津軽海面に於いて戦死 舞鶴海軍人事部長小倉眞に報告
●武藤猛市(妻の祖父の兄)
昭和20年5月20日沖縄本島運玉に於いて戦死 釧路地方世話部町村田昌夫報告
気づけばすべて妻の家系ですね。
【もうひとつの庄司家】庄司家の住んだ地が分かった
ここです。
ご先祖が住んだ米沢山上裏町の土地は、米沢市通町5丁目の進運貨物さんの右2つ隣あたりだとわかりました。
除籍謄本の番地で旧土地台帳を請求すると庄司吉次の名前がありました。
台帳によると明治27年にこの土地を取得しています。手放したのは明治40年となっています。
この土地の所有者は他の姓の方、農林省を経て、昭和25年に取得した方の名前が最後でした。
最後の方の名前を現地の電話帳で検索してみると現住所の通町5丁目にいらっしゃったので、この方の住所が庄司吉次の住んでいた土地と推測できました。
御城下井原々屋敷割帳でも、龍覚院の位置やゼンリンの住宅地図で分かった近くのお宅の姓からおおよその場所が分かりましたが、やはり庄司という名前は無かったです。
この土地、現在はアパートになっているようです。
下記のページによると、この通町のあたりは茅葺屋根の民家がいくつか残っているそうなので、先祖が住んだ民家が残っているんじゃないかと少し期待していたのですが、残念です。
【玉置家】十津川郷士について奈良県立図書情報館に相談してみた
奈良県立図書情報館にメールレファレンスで千葉松治、玉置勘二郎について何か情報がないか聞いてみたところ、下記のように丁寧な回答を頂きました。
【回答】
十津川鄕士の個人名が載っている以下の資料を確認しましたところ、千葉姓や玉置姓の方は
何名か記載がありましたが、該当の人物と同姓同名の方は見 つけられませんでした。
『十津川郷士俸禄奉還一件書 天 地 明治六年三月以降』
『明治四年 士族卒禄高其他 奈良県』また、『十津川』 (奈良県教育委員会事務局文化財保存課編)には十津川郷士について記載はありますが、
個人名は載っておりませんでした。『十津川郷村誌 : 明治十六年調』につきましても、
それぞれの村の歴史についての記載はありましたが、十津川郷士の個人名は載っておりませんでした。当館所蔵の史料には他にも、十津川郷士の個人名が記載されていると思われる史料がありますが、
上記2冊が一番記載の可能性が高い史料となります。
詳しい史料につきましては、当館ホームページの「まほろばライブラリー」にて
「十津川郷士」、「十津川 士族」での検索結果を参考にしていただけ ればと思います。他の史料については、村の区分もなく悉皆的調査になりますので、
これをもって回答とさせていただきます。
よろしくお願いいたします。
うーん、士族ではあったが、十津川郷士では無かったのか。
もしくは岸本先生に教えていただいたように、明治の名簿だから載っていないのか。
十津川村歴史民俗資料館に霊名簿について問合せ中なので、そちらの回答を待ちます。。
【玉置家】十津川郷士について岸本良信先生に相談してみた
母の実家の家系・玉置家についてです。
昔の戸籍には「士族」や「平民」という旧身分が記載されていたのですが、
差別の原因となるため現在取得するものは白く抹消してあるそうです。
ただ、たまに消し忘れもあるそうで、私も1ヶ所だけ見つけました。
私の高祖父の父にあたる玉置勘二郎の戸籍です。
十津川村で取得した戸籍では何か消されたあとがあるのですが、
弟子屈町から取得した戸籍では「士族」と消し忘れています。
弟子屈町グッジョブ。
玉置勘二郎は吉野郡永井村の士族・千葉松治の二男で、明治7(1874)年に玉置家に入ります。
色々調べていく中で、苗字研究家の岸本良信先生のホームページで参考になるページを発見。
まずは十津川郷士の苗字リスト
千葉と玉置があります。
そして、北海道へ移住した十津川郷士リスト
このなかに「千葉勘二郎」と言う名があります。玉置家に入る前の苗字は千葉ですから、これが高祖父の父・玉置勘二郎である可能性があるのではと考えました。
そこで、岸本良信先生に何か情報をお持ちでないか相談してみたところ、下記のように回答を頂きました。
十津川郷士の記録については、
私のHPにもありますが奈良県立図書情報館が豊富に持っています 。ただし、ほとんどが明治の名簿、履歴類で、 それ以前のことを調べるのはなかなか困難です。
十津川郷士の場合、古くから神葬でしたから、地元の自治会や神社に霊名簿というものが残されています。 これは死者の埋葬記録で、仏教の過去帳にあたるものです。 お問い合わせの永井村と玉垣内村の分がどこに保管されているのか は、 まずは十津川村歴史民俗資料館にお訊ねになってみると良いでしょ う。
なお、2009年の電話帳を確認したところ、地元の玉垣内には玉置姓の家が1件あります。 この家に問い合わせても何か情報を持っているかも知ません。
永井の千葉姓はありませんでした。
新十津川村には玉置、千葉姓がいます。これらの家にもいちおうは家系情報を訊ねる手紙を送ってみると良 いでしょう。
見知らぬ家に手紙を書くのは心理的にハードルが高いとは思いますが、思わぬ発見があるかも知れません。試してみて下さい。
ご先祖の事が詳しく判明することをお祈り申します。
岸本良信
ドンピシャの情報はお持ちではなかったようですが、
アドバイス頂いたことで、今後の調査方針を決めることが出来ました。
【もうひとつの庄司家】山形県南置賜郡米沢山上裏町(→新潟県岩船郡上海府村)
今回は妻の祖母方の曾祖母の実家・庄司家です。
妻の実家と同じ庄司という姓なので、もしかして関係あるのか?!と調べてみました。
妻の曾祖母・齋藤志ん(1900~1987)は、明治33年に庄司吉次(1874~1946)、さの(1879~1951)夫妻の長女として山形県南置賜郡米沢山上裏町(現:米沢市通町)で生まれました。
志んは大正7(1918)年に齋藤岩治と結婚します。山形県飽海郡上郷村(現:山形県酒田市)の岩治の兄・齋藤乙吉が戸主の戸籍に入っていますが、実際は北海道十勝郡村の浦幌炭鉱で出会ったとのこと。米沢市と酒田市は同じ山形県ですが150kmほど離れているので、山形県にいる間に出会ったということは無いんじゃないかと思います。
志んが生まれた米沢山上裏町というところは、米沢城の城下町の外側あたりです。
関ケ原の戦いで破れた西軍に関与していた上杉景勝は会津若松120万石の拠点から、6000人余りの家臣とともに米沢藩30万石に減封されました。全ての家臣を城下に住まわせることが出来なかったので、下級家臣たちは城の東側や南側の村方に住まわせられ、半農半士の原方衆屋敷町が形成されました。それが山上裏町や山上通町だそうです。
この庄司家で判明する最古の名前は吉次の祖父・庄司利吉です。吉次の父・嘉蔵の養父として戸籍に記載があります。嘉蔵(1843~1911)は髙山長七の次男として南置賜郡笹野村で生まれ、明治5年に庄司家に養子に入ります。
この山上裏町ですが、城下町なので色々資料があるようです。
ネット上で見られるもので「御城下并原々屋鋪割帳」という地図が米沢市図書館のデジタルライブラリーで公開されていました。
御城下并原々屋鋪割帳 文政8年(1825) (p.46~47が山上裏町)
御城下并原々屋鋪割帳 弘化元年(1844) (p.46~47が山上裏町)
山上裏町内を探してみましたが、残念ながら庄司姓は見つかりませんでした。
同じ山上裏町で生まれた吉次の母・ゆるの実家の窪田姓は2つありました。
吉次の妹・うんの養子先・川野部も同じく山上裏町なのですが、こちらも見つかりません。
吉次の妻・さのは米沢市上花澤信濃町の武田冨蔵、さたの長女ですが、この上花澤信濃町というのも山上裏町と同様な町。こちらも地図上では発見できず。
なかなか読みにくい字で書かれているので気付いていないだけということもありそうですが、こちらの論文によると、米沢藩の人口は段々と少なくなっていき、空き屋敷も増えていったらしいです。庄司家はそういった空き屋敷に後から引越してきたのかもしれないですね。
「志ん婆の実家は庄屋で大きな屋敷だった」との言い伝えがあるので、山上裏町の屋敷に住んでいたのは間違いないと思いますが。。
ここらへんはまだまだ調べていない資料があるので、引き続き追っていきたいと思います。
最後に、(→新潟県岩船郡上海府村)と括弧書きにしているのは、庄司吉次は昭和13年に山形県から65kmほど離れた新潟県岩船郡上海府村へ引越しますが、その中に曾祖母・志んは含まれていないからです(大正7年には北海道へ渡っていたため)。引越した理由は不明です。
残念ながら、戸籍から分かる範囲では妻の実家の庄司家(秋田県由利郡葛岡村)とは関係なさそうです。
<庄司家直系系譜>
庄司利吉→庄司嘉蔵→庄司吉次→庄司(齋藤)志ん・・・
糸の町 半原に生きて-小島茂平 遺稿集-
近所に町内の人しか来ないようなカフェがあるんですが、
そのカフェの前に箱が置いてあり、中には数十冊の本が入っています。
読みたい本が有れば勝手に持っていっても良い、その代わり読み終わった本を置いていってくださいね、ご近所で回し読みしましょうという所です。
私もたまに覗いては数冊頂いて帰ります。
タイトルの本もその中の一冊です。
神奈川県愛甲郡愛川町半原で生まれた小島茂平さんがお調べになったことを「県央史談」や「神奈川ふだん記」に投稿したものを一冊の本にまとめたものだそうです。
ご先祖が半原だという方には非常に参考になる本だと思いますが、
私的にも参考になる話が書いてあったので少し書き出してみようと思います。
私の五代ほど前の親のときに火事を出し、現在私が住んでいる屋敷に移ったという。おそらくそのころから、火元の家は焼け跡には住まないという習慣があったのだろう。私が体験している昭和二十年代までは、そうであった。半原村に十三戸しかなかった頃からの旧家であるが、火事を起こして三沢越させられて現在の地に移ってきたという家もある。
隠居分家といって、家は跡取りに譲り、親が次三男を連れて分家し、その次三男を戸主にして新しい独立した家を建てるという分家の方法がある。
山中湖村の村長さんから、古い本家と分家のあいだで、相互に仲人を務めあっているという話を聞いた。岩手県の江刺市のように一族の本家分家の結びつきが強い土地では、婚礼のときに一番権威を持っているのが本家の主人である。本家と分家でたがいに仲人をつとめあい、しかも仲人を親と同じように扱うという習俗は、一族の結びつきを重んじる社会制度の一つの表現で、その機能は同一であることに気づいた。
家にはオモテモンとウラモンがある。オモテモンは丸に橘であるが、木には根っこがあるのが正しい。ウラモンは九曜の星であると、息子にさとすように言いながら仕上げてくれた。
家に紋所があることぐらいは子供心に知っていたが、ウラモンとは初耳であった。表紋に対する裏紋であろう。
昭和二十六年1月に刊行された柳田國男監修の『民俗学辞典』が高校の図書室で利用出来るようになって、ウラモンの謎も解けた。その「家印」の項目に、神奈川県の北部山間では、普通の家紋を表紋といい、家印を裏紋と称しているとある。同じ家紋を使う家々で、さらに家ごとの違いを表す紋が裏紋らしいことが分かった。
家系図に関係ありそうな話はこれくらいで、
その他は絹撚糸の歴史について詳しく書かれています。
玉置家と小川家の出会い
私の母方の祖父の家系・玉置家と祖母の家系・小川家の出会いについて、
千葉県に住む小川家の親族の方からのお手紙で判明しました。
母方の祖父・玉置冨雄は跡佐登(アトサノボリ)鉱業所に勤めていました。
(【玉置家】祖父の手記という記事で書いてます。)
お手紙によると、
玉置家とは弟子屈町川湯跡佐登にあった野村興産の硫黄採掘精錬所の社宅で隣同士でした。1963年に鉱山が閉山し、玉置家は留辺蘂町へ、小川家は根室市へと移りました。はるか50年以上前のことです。
なんと!家がお隣さんだったのが縁で結婚したのですね。
当時の鉱業所の写真も送ってくださいました。
奥にある白い山は硫黄でしょうか?
跡佐登鉱業所10年の歩みという本のコピーを九州大学から送ってもらったりしながら、鉱業所について調べているのですが、なかなか祖父の生活が分かるような資料は無く困っているところでした。貴重な写真だと思います。
跡佐登から標茶まで硫黄を運ぶ鉄道が走っていたり、釧路集治監があったり、
ここらへんの歴史も調べてみると面白そうです。
家系のインデックス(随時更新)
直系家系図です。(更新:2021/07/24)
見にくかったので分割しました。
家の名【本貫地(現在の地名)】<家紋>の順に記載です(現在18系統)。
<<私の家系>>
平間家【宮城県柴田郡沼田村(柴田郡村田町)】<上り藤に違い鷹の羽>
2019/10/09 【平間家】宮城県柴田郡沼田村→上名寄村→一已村→標茶町
2019/11/08 ご先祖様達はどうやって北海道に来たのか?
渡辺家【宮城県柴田郡船岡村(柴田郡柴田町)】<丸に三ツ星に一文字>
2020/05/16 【渡辺家】「ある百姓の覚え書き:渡辺家文書調査報告書」を調べてみたが、、
2020/08/23【村上家】宮城県柴田郡沼田村→北海道空知郡音江村→網走郡網走町大字藻琴村→川上郡熊牛村大字熊牛村→斜里郡小清水村
吉田家【徳島県板野郡泉谷村(板野郡上坂町)】<井桁に橘?>
2019/11/02 【吉田家】徳島県板野郡松島村→北海道上川郡神楽村(旭川市)→多寄村(名寄市)→川上郡熊牛村(標茶町)
2019/11/08 ご先祖様達はどうやって北海道に来たのか?
安原家【徳島県板野郡七條村(板野郡上坂町)】<不明>
20200325 【吉岡家】奈良県吉野郡宗檜村→北海道上川郡士別村
2019/09/20 【玉置家】奈良県吉野郡十津川村から弟子屈村へ
2019/11/08 ご先祖様達はどうやって北海道に来たのか?
2019/11/17 【玉置家】奈良県吉野郡十津川村大字玉垣内→北海道川上郡屈斜路村御料地→常呂郡留辺蘂町
2020/02/11 【玉置家】十津川郷士について岸本良信先生に相談してみた
2020/02/16 【玉置家】十津川郷士について奈良県立図書情報館に相談してみた
2020/03/08 【玉置家】十津川郷士について十津川村歴史民俗資料館に問い合わせてみた
2020/04/18 【冨宅家】また十津川村歴史民俗資料館に聞いてみた
2020/04/30 【上家】和歌山県那賀郡円明寺村→奈良県吉野郡十津川村→北海道川上郡弟子屈村
20212/08/13 【上家】「紀伊国名所図会」に見る円明寺村
小川家【広島県賀茂郡切田村(東広島市)】<おそらく「向こう橘」関係>
2019/11/08 ご先祖様達はどうやって北海道に来たのか?
2019/11/28 【小川家】広島県賀茂郡中黒瀬村→(北海道厚岸郡太田村)→北海道厚岸郡厚岸町→広島県呉市→北海道根室郡根室町
2020/07/18 【小川家】広島と北海道を行ったり来たり
2020/06/07 【大竹家】広島県佐伯郡井口村→北海道厚岸郡若竹町
<<妻の家系>>
2020/01/02 【庄司家】秋田県由利郡下川大内村→北海道釧路市桜ヶ丘→釧路市音別町
2020/02/29 【庄司家】新潟県の羽越本線・新発田駅と村上駅の官舎について
2020/01/19 【増井家】新潟県西蒲原郡横戸村→北海道虻田郡弁辺村→釧路市桜ヶ丘
武藤家【福島県東白川郡小爪村(東白川郡棚倉町)】<下がり藤>
2020/01/09 【武藤家】福島県東白川郡小爪村→北海道白糠郡音別村
2020/01/25 【齋藤家】山形県飽海郡山寺村→(北海道十勝郡浦幌村)→(釧路市大字釧路村字茂尻矢)→釧路市川上町
もうひとつの庄司家【山形県南置賜郡米沢山上裏町(米沢市通町)】<不明>
2020/02/09【もうひとつの庄司家】山形県南置賜郡米沢山上裏町(→新潟県岩船郡上海府村)
2020/02/19 【もうひとつの庄司家】庄司家の住んだ地が分かった
以上の姓と地名に何かピンときましたら、コメントいただけると嬉しいです!
【齋藤家】山形県飽海郡山寺村→(北海道十勝郡浦幌村)→(釧路市大字釧路村字茂尻矢)→釧路市川上町
妻の祖母の家系・齋藤家です。
北海道での齋藤家の歴史は少し複雑です。
戸籍上では妻の曾祖母・齊藤志んが昭和28年に山形県飽海郡の戸籍から北海道釧路市川上町に新たに戸籍を作り移住したように読み取れます。
(釧路市川上町の戸籍で齋藤→齊藤になってる。)
この戸籍には志んの夫、つまり妻の曾祖父の名前がありません。
移住前の山形県の戸籍には曾祖父・齋藤岩治の名がありますが、
謎が多いので、妻のお母さんに話を聞いたところ、
齋藤岩治と志んは北海道十勝郡浦幌村の浦幌炭鉱で出会ったそうです。
志んは炭鉱の食堂で働いていたとのこと。
2人は大正7年に結婚しているので、その頃には北海道に移住していたと思われます。
下のリンク先によると
大正7(1918)年、浦幌炭鉱は大和鉱業(株)(平林甚輔)によって開発されました。
とのことなので、
2人は炭鉱が開かれたのと同時に、そこで働くために移住したのでしょう。
妻の家系は炭鉱絡みでの移住が多いですね。
そして2人の間には三男一女(夭折含む)の子供たちがいることが、
山形県の戸籍から分かりますが、この中には妻の祖母・敏子は含まれません。
敏子は釧路市川上町の戸籍に初めて出てきますが、
敏子が生まれた昭和5年には岩治は亡くなっており、戸籍にも父親の記載はありません。
ここでまた妻のお母さんに頼ります。
戸籍をよく見てみると、1ヶ所だけその名が記載されていました。
岩治と志んの長女トヨが16歳で亡くなった際の届出人として、「同居者下屋敷熊五郎」と書かれていました。
なぜ志んと熊五郎は結婚しなかったのか、
なぜ志んは旧姓・庄司に戻らず齋藤のままだったのかは、今となっては分かりません。
(志んの旧姓・庄司と妻の父の家系の庄司が関係あるのかはまだ不明です。)
あと戸籍には出てきませんが、熊五郎には一人連れ子がいたそうです。
その子は岩手県の「日陰茂井」家の養子になったそうです。
日陰茂井という苗字初めて聞きました。岩手県に茂井という地名があって、そこに日陰になっている場所があったので、日陰茂井だそうです。
戸籍から分かる最も古い名は7世の祖父(高祖父の父の父の父)・齋藤三四郎です。
ここから3代三四郎を襲名しています。
ここもややこしくて、一番古い戸籍の戸主は高祖父・齋藤治吉なんですが
その母「さくよ」の欄に「亡父三四郎妻」「亡祖父三四郎長女」、祖母「いの」の欄に「亡祖父三四郎妻」「亡曾祖父三四郎長女」となっています。
治吉-----三四郎
Lさくよ-----三四郎
Lいの -----三四郎
なので、7世の祖父・齋藤三四郎はホントは高祖父の母の母の父で、7世も6世も5世も結婚後に三四郎に改名したのかもしれません。
お墓とか過去帳など調べないとホントのところは分かりません。
<齋藤家直系譜>
齋藤三四郎→齋藤三四郎→齋藤三四郎→齋藤治吉→齋藤岩治/(下屋敷熊五郎)→齊藤敏子→義母→妻
血筋的には齋藤家ではなく下屋敷家になるんですが、戸籍に入っていないため請求できないのが残念です。
【増井家】新潟県西蒲原郡横戸村→北海道虻田郡弁辺村→釧路市桜ヶ丘
妻の父の母の家系・増井家です。
北海道での増井家の歴史は、明治33年に妻の高祖父の父・増井籐八が新潟県から北海道虻田郡弁辺村(現在の豊浦町)に移住したことに始まります。
戸籍から分かる最も古い名は、増井藤八の父・増井重寿計、母・ミネです。
「重寿計」って何と読むのでしょう?「重寿」だけなら「しげとし」「しげひさ」と読むようですけど。
増井藤八が北海道に移住してきた理由は例のごとく、これから調べていきます。
その後、昭和9年に妻の曾祖父・増井信治が妻の曾祖母・ユキノ(旧姓水野)と結婚を期に義兄増井新平の戸籍から分家、同年に妻の祖母・伊美子が生まれます。
太平洋炭鉱で働くためでしょうか?
<増井家直系譜>
増井重寿計→増井藤八→増井丑太郎→増井信治→増井伊美子→義父→妻
あとは妻の母の母の家系・齊藤家で一区切りです。