古民家山十邸

つるし雛を見に近所の古民家山十邸に行ってきました。

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ここは明治16(1883)年に建設された中津地区の豪農熊坂半兵衛の邸宅として作られたそうです。「山十」は屋号。半原の宮大工棟梁として知られる矢内家の三兄弟、右仲・左仲・左文治によって建てられたそうです。戦前の思想家大川周明が明治19(1944)年に購入し、昭和32(1957)年まで住んでいたとのこと。

 

明治初期の様子を描いた絵がありました。

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大川周明について

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近隣の郷土史が沢山!

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「永朝法印」愛用の駕籠

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【庄司家】新潟県の羽越本線・新発田駅と村上駅の官舎について

下記の記事書いた、戸籍に書かれた駅 羽越本線新発田駅村上駅の官舎についてです。

kensuke1108.hatenablog.com

 

羽越本線というのは、新潟県新潟市の新津駅から日本海沿岸を経て秋田県秋田市秋田駅までを結ぶ路線だそうです。路線についての詳細はウィキペディアなどで分かるのですが、官舎については書かれていません。

ja.wikipedia.org

 

越後の停車場」という本を読んでみましたが、当時の駅の写真はあるのですが官舎については記載なし。

 

羽越線資料館」というHPの掲示板で聞いてみましたが、官舎については調べるのが難しいのでは。とのこと。

官舎というのは平たく言うと、駅で働く鉄道員のための社宅です。かつてはどこの駅にも少なくとも駅長官舎があったようですが、無人化などで殆どなくなっているようです。
鉄道趣味の中でも直接鉄道とはあまり関係ない官舎のことは、なかなか調べるのが難しいと思います。
当時は国有なので、登記もありませんし、そのころは今のように住宅地図もなかったと思うので。。
当HPにも掲載している駅の構内図(主に線路の配線図)にも、官舎は記載されていません。
官報の中に、建設の際の入札公告が出ている可能性がありますが、検索できないので一枚一枚見ていく必要があり、現実的ではありません。
可能性としては、新発田市村上市の図書館に聞いてみるくらいしか思い当たりません・・。 

 

新潟県立図書館のメールリファレンスで聞いてみました。

当館所蔵資料を確認したところ、両駅の鉄道官舎について記述がある資料は見つかりませんでした。ただ同時期の鉄道官舎に関しては、下記(1)~(4)の資料に、同時期の両駅や駅周辺の写真については、下記(5)~(11)の資料に記述がありました。なお、同じ写真が複数の資料に掲載されているものもすべてご紹介しています。

 

(1)『三十年史』(日本国有鉄道新潟支社修史委員会/編 日本国有鉄道新潟支社1967)

「第6編 施設」の項内p485~487「5 宿舎および寮」には、新発田や村上についての記述はありませんが、支社開局からの宿舎の状況について写真を交えつつ記述があります。その中には、「管内で最も古い新井駅構内宿舎3号と平面図」として明治35年建築の宿舎の写真と平面図が掲載されています。

 

(2)『日本国有鉄道百年史』第7巻(日本国有鉄道 1971)

p396~397には「標準官舎一覧表」として、昭和5年頃と思われますが、官舎の種別ごとに構造や広さ、部屋数などを紹介しています。

 

(3)『羽越本線の90年』(瀬古龍雄/[ほか]監修 郷土出版社 1997)

「大正を貫く開業への槌音」の項内p40~42には、大正時代の新発田駅や駅周辺の写真が掲載されています。またp46、74~75には、同じく大正時代の村上駅の写真が掲載されています。

 

(4)『新潟県の100年』第4交通・産業編(新潟日報事業社出版部/編 新潟日報事業社出版部 1985)

「陸蒸気走る」の項内p92に大正中期の、p83には大正元年頃の新発田駅の写真が掲載されています。

 

(5)『新発田市史』下巻(新発田市史編纂委員会/編 新発田市 1981)

羽越線の開通」の項内p453~454に、新発田駅駅前通りの写真が掲載されています。

 

(6)『昔のしばたの暮らし』(ふるさと伝承記録刊行会/編 ぎょうせい 1987)

「鉄道」の項内p20に、大正元年新発田駅の写真2点が掲載されています。

 

(7)『目で見る新発田・豊栄・北蒲原郡の100年』(佐久間惇一/監修,高橋礼弥/監修 郷土出版社 1993)

「大正期の出来事」の項内p52~53に、大正元年新発田駅と大正初期の新発田駅前広場の写真が掲載されています。

 

(8)『ふるさとの百年 新発田・北蒲原第2』(新潟日報事業社出版部/編 新潟日報事業社 1982)

「町並み」の項内p10に、大正後期の駅前通りと大正元年の駅前付近の写真が掲載されています。

 

(9)『ふるさと新発田』(郷土出版社 2007)

「交通の変遷」の項内p160~161に大正元年新発田駅と大正3年ごろの駅構内の写真が掲載されています。

 

(10)『目で見る村上・岩船の100年』(大場喜代司/監修 郷土出版社 1993)

羽越線の開通」の項内p64に大正3年の村上駅の写真が掲載されています。

 

(11)『ふるさとの百年 村上・岩船』(新潟日報事業社出版部/編 新潟日報事業社 1981)

「鉄道のむかし」の項内p33に大正13年の村上駅の写真が掲載されています。

 

ドンピシャはありませんでしたが同時期の官舎について書かれた資料があるようなので、それらからご先祖の暮らしが想像できればいいな、と思います。

【渡辺家】宮城県柴田郡船岡村

私の曾祖父・平間吉五郎は1893(明治26)年に、宮城県柴田郡船岡村の渡邉留吉の四男として生まれました。その後、平間源左エ門の養女・たつのの婿養子として平間家に入りました。

 

 戸籍上で最も古い名前は、吉五郎の父の父・渡辺儀七です。名前のみ判っています。吉五郎の父・留吉(1856~?)は、1880(明治13)年に宮崎県刈田郡宮村の平間角治の三女・けさよ(1858~?)と結婚します。留吉24歳、けさよ22歳です。

けさよの家系の平間家と、私の家系の平間家の繋がりは残念ながら判っていません。戸籍も取得出来ませんでした。

 

源左エ門の姉・ふさが留吉の甥にあたる渡辺今朝治郎と結婚していたり、船岡村の渡辺家との繋がりは不明ですが柴田郡大河原村の渡辺家からも平間家に養子に来ているので、平間家と渡辺家は関係が深かったようです。

 

重要な家系なので渡辺家について詳細が知りたいところです。

 

<渡辺家直系系譜>

渡辺儀七→二男・渡辺留吉→四男・渡辺吉五郎(平間吉五郎)

家紋:?

直系家系図

現時点での直系家系図を作成したので載せてみます。

まだまだ請求出来る家系がありますが、子供世代から見ると壮大ですね。

 

kensuke1108.hatenablog.com

 

公開できないかもしれませんが、

弟からの依頼で、弟の奥さんの家系も調査中です。

海に囲まれて ここで生まれた♪

小田和正のそんな唄がありますね。

 

戸籍謄本には出生した場所、死亡した場所が書かれていますが、

ほとんどが「本籍に於いて出生 / 死亡」だったり、本籍ではない場所なら住所で「どこどこに於いて出生 / 死亡」というのが殆どですが、いくつか珍しい場所のご先祖がいたので、書き出してみます。

 

●庄司正雄(妻の曾祖母の兄)

大正8年11月29日 新潟県北浦原郡新発田駅官舎に於いて死亡

 

●庄司ヨシ(妻の曾祖母の妹の子)

大正14年3月11日 新潟県岩船郡村上ヶ鉄道官舎第七号二戸に於いて出生

 

●齋藤静雄(妻の祖母の兄)

大正7年3月28日 新潟県新発田駅構内鉄道院官舎第四号の二戸に於いて出生

 

駅で働いていたということでしょうか?

鉄道員官舎については調査中です。

 

 

●齋藤春夫(妻の祖母の兄)

大正9年8月13日 北海道十勝郡浦幌村字上常室浦幌炭鉱鉱業所に於いて出生

大正11年8月3日 北海道十勝郡浦幌村大字浦幌村字下浦幌上常室浦幌炭鉱宿舎に於いて死亡

 

上の齋藤静雄と兄弟なんですが、こちらは浦幌炭鉱で生まれています。

妻の高祖父母は静雄が生まれた2年後には北海道に移住していて浦幌炭鉱で働いていたという感じでしょうか?

 

 

●庄司祐(妻の曾祖母のいとこの子)

大正2年5月11日 満州国奉天省本溪湖市宮原遍共榮街四番地の十一号に於いて出生

 

 普通の住所ですが、唯一の満州国なので。

本溪湖市は「黒く燃える町」と言われた炭鉱と製鉄所のある町だそうです。

媒鉄公司、洋灰公司、特殊鋼株式会社、鉄道株式会社など製鉄と炭坑の街として栄え沢山の日本人が住んでいたらしいですね。

 

 

ここからは戦死したご先祖達。 終戦は昭和20年8月15日。

戦争関係なら資料が残っていそうなので、おいおい詳しく調べてみたいです。

 

●庄司守(妻の曾祖母のいとこ)

昭和20年8月17日 満州黒河省孫呉県第一秋月山で戦死 新潟県知事岡田正平報告

上の庄司祐の父です。

 

●齋藤光雄(妻の祖母の兄)

昭和20年7月15日 津軽海面に於いて戦死 舞鶴海軍人事部長小倉眞に報告

 

●武藤猛市(妻の祖父の兄)

昭和20年5月20日沖縄本島運玉に於いて戦死 釧路地方世話部町村田昌夫報告

 

気づけばすべて妻の家系ですね。

【もうひとつの庄司家】庄司家の住んだ地が分かった

ここです。

ご先祖が住んだ米沢山上裏町の土地は、米沢市通町5丁目の進運貨物さんの右2つ隣あたりだとわかりました。

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除籍謄本の番地で旧土地台帳を請求すると庄司吉次の名前がありました。

台帳によると明治27年にこの土地を取得しています。手放したのは明治40年となっています。

この土地の所有者は他の姓の方、農林省を経て、昭和25年に取得した方の名前が最後でした。

 

最後の方の名前を現地の電話帳で検索してみると現住所の通町5丁目にいらっしゃったので、この方の住所が庄司吉次の住んでいた土地と推測できました。

 

御城下井原々屋敷割帳でも、龍覚院の位置やゼンリンの住宅地図で分かった近くのお宅の姓からおおよその場所が分かりましたが、やはり庄司という名前は無かったです。

 

この土地、現在はアパートになっているようです。

下記のページによると、この通町のあたりは茅葺屋根の民家がいくつか残っているそうなので、先祖が住んだ民家が残っているんじゃないかと少し期待していたのですが、残念です。

matinami.o.oo7.jp

【玉置家】十津川郷士について奈良県立図書情報館に相談してみた

奈良県立図書情報館にメールレファレンスで千葉松治、玉置勘二郎について何か情報がないか聞いてみたところ、下記のように丁寧な回答を頂きました。

 

【回答】
十津川鄕士の個人名が載っている以下の資料を確認しましたところ、千葉姓や玉置姓の方は
何名か記載がありましたが、該当の人物と同姓同名の方は見 つけられませんでした。
『十津川郷士俸禄奉還一件書 天 地 明治六年三月以降』
『明治四年 士族卒禄高其他 奈良県

また、『十津川』 (奈良県教育委員会事務局文化財保存課編)には十津川郷士について記載はありますが、
個人名は載っておりませんでした。『十津川郷村誌 : 明治十六年調』につきましても、
それぞれの村の歴史についての記載はありましたが、十津川郷士の個人名は載っておりませんでした。

当館所蔵の史料には他にも、十津川郷士の個人名が記載されていると思われる史料がありますが、
上記2冊が一番記載の可能性が高い史料となります。
詳しい史料につきましては、当館ホームページの「まほろばライブラリー」にて
「十津川郷士」、「十津川 士族」での検索結果を参考にしていただけ ればと思います。

他の史料については、村の区分もなく悉皆的調査になりますので、
これをもって回答とさせていただきます。
よろしくお願いいたします。

 うーん、士族ではあったが、十津川郷士では無かったのか。

もしくは岸本先生に教えていただいたように、明治の名簿だから載っていないのか。

 

十津川村歴史民俗資料館に霊名簿について問合せ中なので、そちらの回答を待ちます。。

【玉置家】十津川郷士について岸本良信先生に相談してみた

母の実家の家系・玉置家についてです。

 

昔の戸籍には「士族」や「平民」という旧身分が記載されていたのですが、

差別の原因となるため現在取得するものは白く抹消してあるそうです。

ただ、たまに消し忘れもあるそうで、私も1ヶ所だけ見つけました。

 

私の高祖父の父にあたる玉置勘二郎の戸籍です。

十津川村で取得した戸籍では何か消されたあとがあるのですが、

弟子屈町から取得した戸籍では「士族」と消し忘れています。

弟子屈町グッジョブ。

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玉置勘二郎は吉野郡永井村の士族・千葉松治の二男で、明治7(1874)年に玉置家に入ります。

十津川村で士族というと十津川郷士が思い浮かびます。

色々調べていく中で、苗字研究家の岸本良信先生のホームページで参考になるページを発見。

まずは十津川郷士の苗字リスト

www.kishimotoyoshinobu.com

千葉と玉置があります。

 

そして、北海道へ移住した十津川郷士リスト

www.kishimotoyoshinobu.com

このなかに「千葉勘二郎」と言う名があります。玉置家に入る前の苗字は千葉ですから、これが高祖父の父・玉置勘二郎である可能性があるのではと考えました。

 

そこで、岸本良信先生に何か情報をお持ちでないか相談してみたところ、下記のように回答を頂きました。

十津川郷士の記録については、私のHPにもありますが奈良県立図書情報館が豊富に持っています。ただし、ほとんどが明治の名簿、履歴類で、それ以前のことを調べるのはなかなか困難です。
十津川郷士の場合、古くから神葬でしたから、地元の自治会や神社に霊名簿というものが残されています。これは死者の埋葬記録で、仏教の過去帳にあたるものです。お問い合わせの永井村と玉垣内村の分がどこに保管されているのかは、まずは十津川村歴史民俗資料館にお訊ねになってみると良いでしょう。

なお、2009年の電話帳を確認したところ、地元の玉垣内には玉置姓の家が1件あります。この家に問い合わせても何か情報を持っているかも知ません。
永井の千葉姓はありませんでした。

新十津川村には玉置、千葉姓がいます。これらの家にもいちおうは家系情報を訊ねる手紙を送ってみると良いでしょう。

見知らぬ家に手紙を書くのは心理的にハードルが高いとは思いますが、思わぬ発見があるかも知れません。試してみて下さい。

ご先祖の事が詳しく判明することをお祈り申します。

岸本良信 

 ドンピシャの情報はお持ちではなかったようですが、

アドバイス頂いたことで、今後の調査方針を決めることが出来ました。

 

【もうひとつの庄司家】山形県南置賜郡米沢山上裏町(→新潟県岩船郡上海府村)

今回は妻の祖母方の曾祖母の実家・庄司家です。

妻の実家と同じ庄司という姓なので、もしかして関係あるのか?!と調べてみました。

 

妻の曾祖母・齋藤志ん(1900~1987)は、明治33年に庄司吉次(1874~1946)、さの(1879~1951)夫妻の長女として山形県南置賜郡米沢山上裏町(現:米沢市通町)で生まれました。

 

志んは大正7(1918)年に齋藤岩治と結婚します。山形県飽海郡上郷村(現:山形県酒田市)の岩治の兄・齋藤乙吉が戸主の戸籍に入っていますが、実際は北海道十勝郡村の浦幌炭鉱で出会ったとのこと。米沢市酒田市は同じ山形県ですが150kmほど離れているので、山形県にいる間に出会ったということは無いんじゃないかと思います。

 

志んが生まれた米沢山上裏町というところは、米沢城の城下町の外側あたりです。

関ケ原の戦いで破れた西軍に関与していた上杉景勝会津若松120万石の拠点から、6000人余りの家臣とともに米沢藩30万石に減封されました。全ての家臣を城下に住まわせることが出来なかったので、下級家臣たちは城の東側や南側の村方に住まわせられ、半農半士の原方衆屋敷町が形成されました。それが山上裏町や山上通町だそうです。

 

この庄司家で判明する最古の名前は吉次の祖父・庄司利吉です。吉次の父・嘉蔵の養父として戸籍に記載があります。嘉蔵(1843~1911)は髙山長七の次男として南置賜郡笹野村で生まれ、明治5年に庄司家に養子に入ります。

 

この山上裏町ですが、城下町なので色々資料があるようです。

ネット上で見られるもので「御城下并原々屋鋪割帳」という地図が米沢市図書館のデジタルライブラリーで公開されていました。

御城下并原々屋鋪割帳 文政8年(1825) (p.46~47が山上裏町)

御城下并原々屋鋪割帳 弘化元年(1844) (p.46~47が山上裏町)

山上裏町内を探してみましたが、残念ながら庄司姓は見つかりませんでした。

同じ山上裏町で生まれた吉次の母・ゆるの実家の窪田姓は2つありました。

吉次の妹・うんの養子先・川野部も同じく山上裏町なのですが、こちらも見つかりません。

吉次の妻・さのは米沢市上花澤信濃町の武田冨蔵、さたの長女ですが、この上花澤信濃町というのも山上裏町と同様な町。こちらも地図上では発見できず。

 

なかなか読みにくい字で書かれているので気付いていないだけということもありそうですが、こちらの論文によると、米沢藩の人口は段々と少なくなっていき、空き屋敷も増えていったらしいです。庄司家はそういった空き屋敷に後から引越してきたのかもしれないですね。

「志ん婆の実家は庄屋で大きな屋敷だった」との言い伝えがあるので、山上裏町の屋敷に住んでいたのは間違いないと思いますが。。

ここらへんはまだまだ調べていない資料があるので、引き続き追っていきたいと思います。

 

最後に、(→新潟県岩船郡上海府村)と括弧書きにしているのは、庄司吉次は昭和13年山形県から65kmほど離れた新潟県岩船郡上海府村へ引越しますが、その中に曾祖母・志んは含まれていないからです(大正7年には北海道へ渡っていたため)。引越した理由は不明です。

 

残念ながら、戸籍から分かる範囲では妻の実家の庄司家(秋田県由利郡葛岡村)とは関係なさそうです。

 

<庄司家直系系譜>

庄司利吉→庄司嘉蔵→庄司吉次→庄司(齋藤)志ん・・・

糸の町 半原に生きて-小島茂平 遺稿集-

近所に町内の人しか来ないようなカフェがあるんですが、

そのカフェの前に箱が置いてあり、中には数十冊の本が入っています。

読みたい本が有れば勝手に持っていっても良い、その代わり読み終わった本を置いていってくださいね、ご近所で回し読みしましょうという所です。

私もたまに覗いては数冊頂いて帰ります。

タイトルの本もその中の一冊です。

 

神奈川県愛甲郡愛川町半原で生まれた小島茂平さんがお調べになったことを「県央史談」や「神奈川ふだん記」に投稿したものを一冊の本にまとめたものだそうです。

 

ご先祖が半原だという方には非常に参考になる本だと思いますが、

私的にも参考になる話が書いてあったので少し書き出してみようと思います。

 

私の五代ほど前の親のときに火事を出し、現在私が住んでいる屋敷に移ったという。おそらくそのころから、火元の家は焼け跡には住まないという習慣があったのだろう。私が体験している昭和二十年代までは、そうであった。半原村に十三戸しかなかった頃からの旧家であるが、火事を起こして三沢越させられて現在の地に移ってきたという家もある。

 

隠居分家といって、家は跡取りに譲り、親が次三男を連れて分家し、その次三男を戸主にして新しい独立した家を建てるという分家の方法がある。

 

山中湖村の村長さんから、古い本家と分家のあいだで、相互に仲人を務めあっているという話を聞いた。岩手県江刺市のように一族の本家分家の結びつきが強い土地では、婚礼のときに一番権威を持っているのが本家の主人である。本家と分家でたがいに仲人をつとめあい、しかも仲人を親と同じように扱うという習俗は、一族の結びつきを重んじる社会制度の一つの表現で、その機能は同一であることに気づいた。 

 

家にはオモテモンとウラモンがある。オモテモンは丸に橘であるが、木には根っこがあるのが正しい。ウラモンは九曜の星であると、息子にさとすように言いながら仕上げてくれた。

家に紋所があることぐらいは子供心に知っていたが、ウラモンとは初耳であった。表紋に対する裏紋であろう。

昭和二十六年1月に刊行された柳田國男監修の『民俗学辞典』が高校の図書室で利用出来るようになって、ウラモンの謎も解けた。その「家印」の項目に、神奈川県の北部山間では、普通の家紋を表紋といい、家印を裏紋と称しているとある。同じ家紋を使う家々で、さらに家ごとの違いを表す紋が裏紋らしいことが分かった。

 

家系図に関係ありそうな話はこれくらいで、

その他は絹撚糸の歴史について詳しく書かれています。