【大竹家】広島県佐伯郡井口村→北海道厚岸郡若竹町
私の曾祖母・小川ミツヨの実家・大竹家です。
ミツヨは私の母の母の母です。
戸籍上で最も古い大竹姓の名前は、ミツヨの祖父・大竹文四郎です。
私からだと5世の祖父になります。
ミツヨの父・勘兵衛の亡父として名前のみ分かっています。
広島県に戸籍を請求しましたが破棄されており、
広島県のご先祖が住んでいた地・井口には2軒の大竹姓のお宅があり、
手紙を出さなきゃと思っていましたが、出張が入ってしまったり、気力が無かったりで出せてません。。6月中には出したい。。
また井口の近くには大竹市があり、ここが大竹姓のルーツの可能性もあるのか・・?とも思っています。ここにも1軒大竹姓のお宅があるので手紙を出そうと思っています。
大竹家は明治15年に広島県から北海道厚岸郡若竹町に入植します。
明治15年というのは私の家系の中ではダントツに早いです。
次が吉田家の明治38年ですから20年以上も早い入植です。
屯田兵かもと調べてみましたが、屯田兵名簿には大竹勘兵衛の名前はありませんでした。
この勘兵衛は元々「寅蔵」だったのを勘兵衛に改名してるのですが、大竹寅蔵でも屯田兵名簿には出てきませんでした。
厚岸町は東北海道では最も早く開拓されたところで、明治2年に開拓使が置かれ、明治4年には佐賀藩から入植したようです。
下記のページによると、明治13年頃から海産物の売買が盛んになっていったようですから、そういった商売をするために北海道へ渡ってきたのかもしれません。
明治9年、場所請負商人の支配を引き継ぐ漁場持が廃止され、明治13年には、開拓使によって海産物の自由販売が認められるようになった。明治20年には水産税が軽減され、折からのニシン漁の豊漁も手伝い、水産業が興隆する条件が整えられていった。水産業が盛んになるにつれ、商業者も盛んに厚岸に出店するようになり、湾月町・若竹町を中心に商店街が形成されていった。
最近Google booksでご先祖の名前を検索するという技を覚えました。
大竹勘兵衛を検索してみると、殖民公報の第23~32号にそれらしき名前があることがわかりました。
早速購入して確認したところ、第25号の「明治37年末現在 北海道国有未開地 大地積貸付表」の釧路国區畫地に名前がありました。
厚岸郡の茶内および浜中町に486,320坪の土地を借りていたようです。
目的地目は「牧」、備考に「牛蕃殖」とあったので、おそらく乳牛を育てていたんだと思います。
このあたりは厚岸町の郷土史を調べてみるとなにか判るかもしれません。
浜中町にも大竹姓のお宅が一軒あり、しかも取得できた戸籍に出てくる祖父母の代の方と同じ名前なので、遠縁のお宅の可能性大です。こちらも手紙書かねば。。
<<2021.07.24追記>>
再びGoogle booksで検索してみたところ、「北海道国有未開地処分法完結文書」に記載がありそうなことが分かったので、北海道立文書館にリファレンスを依頼した。
数日後に以下のように回答を頂いた。
● 回答
北海道国有未開地処分法完結文書において今回確認できた「大竹勘兵衛」さんについての記載は、次のとおりとなります。
1,「釧路国厚岸郡(浜中村大字琵琶瀬村字)茶内原野及浜中村」の土地について
(1)明治35 年1 月に出願し、明治36 年8 月に貸付の許可を得たこと。
(2)貸付を受けた際の「雑貨商大竹勘兵衛」さんの住所については、
「北海道厚岸郡厚岸町大字若竹町六十四番地」であること。
(3)当該貸付については、他の方(川端嘉平という方です)と共同で出願し、許可を得ていること。
その他、貸付を受けた地積や貸付の期間など
参照資料
『北海道国有未開地処分法完結文書貸付台帳』(A7-1/B ホン/55)
『北海道国有未開地処分法完結文書貸付台帳』(A7-1/B ホン/62)
2,「釧路国厚岸郡浜中村大字浜中村字浜中五十三番地」の土地について
(1)明治42 年10 月に出願し、明治43 年8 月に売り払いの許可を得たこと。
(2)売り払いを受けた際の「大竹勘兵衛」さんの住所については、
「北海道厚岸郡厚岸町大字若竹町六十四番地」であること。
その他、売買価格や成功期限、目的地目(放牧地)など
参照資料
『北海道国有未開地処分法完結文書売払台帳』(A7-1/B ホン/103)
『北海道国有未開地処分法完結文書売払台帳』(A7-1/B ホン/120)
該当があった資料4冊は全て台帳であったため、戸籍謄本の写し等は添付がありませんでした。
3,上記で「大竹勘兵衛」さんの住所とされている「北海道厚岸郡厚岸町大字若竹町六十四番地」の土地については、土地の貸付等の記録は確認できませんでした。
大竹勘兵衛は雑貨商だったようです!
ただ、記載あるのは明治35年についてなので、明治15年に移住してきた目的、移住から明治35年までの間の足取りはまだ不明。
<<2021.07.24追記おわり>>
私の曾祖母・ミツヨは大竹勘兵衛・ワカの長女として明治29年に生まれました。
そして大正7年に、同じく広島県から北海道にやってきた小川家の三男・秀夫と結婚します。このときミツヨは23歳、秀夫は35歳でした。
小川秀夫は先に厚岸郡太田村に入植していた叔父の兼吉の養子となり明治42年に北海道にやってきました。同じ広島県から厚岸への入植という縁があったのでしょうか。
その後、私の祖母・トワ子が昭和3年に生まれるのですが、
戸籍では生まれた地が広島県呉市古江町となっており、このあたりの足取りは不明です。一度年表にまとめてみないと理解出来なさそうです。
<大竹家直系譜>
大竹文四郎→大竹勘兵衛(寅蔵)→大竹ミツヨ(小川ミツヨ)・・・
【渡辺家】「ある百姓の覚え書き:渡辺家文書調査報告書」を調べてみたが、、
私の父の父の・・と辿っていった5世の祖父である渡辺儀七について、
ちょこちょこと調べているなかで、ある資料を見つけました。
「ある百姓の覚え書き:渡辺家文書調査報告書」
https://www.library.pref.miyagi.jp/wo/opc_srh/srh_detail/1100853588/
仙台藩片倉領内白石中町(白石市)に住んでいた渡辺家に伝わる古文書を調査した内容をまとめたものです。
渡辺儀七が住んでいたのは柴田郡船岡村で、白石市との距離は20km弱。
近いといえば近いので、もしかしたら関係あるかもしれないと思いました。
この資料中に渡辺家の家系図があるとのことだったので、
宮城県図書館に複写の依頼をして送付してもらいました。
届いた資料を確認した所・・・
残念ながら私に関係のある渡辺家ではありませんでした。おそらく。
何人か「儀」が入った名前の人がいるのですが、たまたまかもしれません。
渡辺家・平間家に関係のある「宮村」から何人も嫁が来たり、嫁に行ったりしているので地域的には近いのは間違いないとは思っています。
同姓に手紙を出さないととは思っているのですが、
旧土地台帳から判明している場所(柴田町大字船岡字新町)が現住所でどこなのか
いまいちわからず、大字で調べると同姓が30軒以上あるので躊躇しています。
【上家】和歌山県那賀郡円明寺村→奈良県吉野郡十津川村→北海道川上郡弟子屈村
私の曾祖母・玉置カネの実家・上家についてです。
カネは私の母の父の母です。
カネは明治41(1908)年に生れました。
戸籍上で最も古い名前は、カネの曾祖父・上 重次郎です。私からだと六世の祖父になります。
重次郎は五世の祖父・上 勝右衛門の養父として名前だけ出てきます。
勝右衛門は谷田利右エ門の次男として嘉永2(1849)に和歌山県那賀郡谷村で生れました。その後、明治7(1874)年に上家に養子として入ります。
明治7年3月に養子になって、4月には重次郎が亡くなって相続しているので、もう重次郎が危ないと分かっていて家を続かせるために養子として勝右衛門を迎えたのでしょうか。
明治9(1876)年には勝右衛門とキミエの長男として、私の高祖父・上 政太郎が生まれます。そして、明治43(1910)年、34歳のときに田ノ岡六之助の四女・トラノと結婚します。その際に、曾祖母・カネが認知されます。
カネの父の欄には上 政太郎、母の欄にはトラノとあるので、政太郎とトラノが結婚する前にカネを授かっており、何らかの理由で結婚が遅れたため一旦はトラノの父・田ノ岡六之助の戸籍に入った後、無事結婚し、カネを認知したという感じでしょうか。
一家は大正3(1914)年4月に奈良県吉野郡十津川村に移住し、同年10月には北海道川上郡弟子屈村大字屈斜路村御料地に入植します。
同年同月に、後にカネが嫁ぐ玉置家も十津川村から屈斜路村御料地へ移住しています。
「弟子屈町農業の概要」という資料には和歌山県からは入植が無いようなので、上家は北海道へ移住するために一旦十津川村へ移住し準備したと思われます。
https://www.town.teshikaga.hokkaido.jp/material/files/group/17/SCAN-8142.pdf
昭和2(1927)年、北海道に入植して9年、カネが20歳のときに玉置久雄と結婚します。
同じ時に北海道へ入植した縁があったのでしょう。
<上家直系譜>
上 重次郎→上 勝右衛門→上 政太郎→上 カネ・・・
【冨宅家】また十津川村歴史民俗資料館に聞いてみた。
冨宅家の戸籍から新たな十津川村に関係のあるご先祖の名前が分かったので、
また手紙を書いてみました。
前回玉置家について問合せたときの担当さんは
昨年度で退職されてしまったそうですが、
新しい担当さんがまた調べてくださいました。
・六世の祖父・冨宅安直は冨宅久兵衛の三男(1代遡れた!)
・五世の祖父・深瀬佐兵衛は古い戸籍では「佐平」となっている。
しかも戸籍では一冨の父となっているが、祖父の世代のようである。
・冨宅安直の妻・志ようぶの父・玉置助左エ門は古い戸籍では「助之進」となっている。
佐兵衛が佐平だったのは読みが同じなのでなんとなく分りますが、
助左エ門が助之進だったというのは何なのでしょう。
今回は、担当さんが変わったからか古い戸籍を送ってもらえませんでした。
ですが、訪問すれば自分で調べても良いとのことなので、
コロナが収束したら是非十津川村に行ってみたいと思います。
更新しました。
【冨宅家】奈良県吉野郡玉垣内村
私の高祖母・玉置ヤスノの実家・冨宅家についてです。
ヤスノは私の母の父の父の母です。
ヤスノは明治17(1884)年に冨宅一冨、いしの長女として奈良県吉野郡玉垣内村で生れました。
戸籍上で最も古い名前は、いしの父・冨宅安直です。
一冨は明治11(1878)年に、深瀬家から冨宅家に婿養子として入りました。
一冨は深瀬佐兵エの二男として吉野郡重里村で生れました。
ヤスノは明治37(1904)年、20歳のときに同じ玉垣内村の玉置岩太郎と結婚し、岩太郎の父・玉置勘二郎の戸籍に入ります。
冨宅家は玉垣内村の1番屋敷で玉置家は8番屋敷、冨宅家は番号的に村の庄屋的な立場だったのでしょうか。。
十津川かけはしネットで公開されている、嘉永6年の「武器取調帳」のなかで、
「玉垣内村庄屋 松村元右衛門」とありました。姓が違いますね。。
ヤスノは岩太郎と結婚後、大正3(1914)年に玉置家とともに北海道川上郡屈斜路村御料地へ移住します。
<冨宅家直系系譜>
冨宅安直→冨宅一冨(深瀬一冨)→冨宅ヤスノ・・・
冨宅安直の妻・志ようぶも玉置でした。
この志ようぶの父・玉置助左エ門が実は冨宅家の戸籍で分かった一番古い名前でした。
重里村の玉置といえば、勘次郎の妻・こべんも重里村の玉置でしたね。
この二つの玉置は関係があるんでしょうか・・。
土地柄、このあたりは玉置だらけです。
【迎井家】奈良県吉野郡茄子原村
私の高祖母・吉岡ナツの実家・迎井家についてです。
ナツは私の父の母の母の母です。
ナツは明治19(1886)年に迎井新太郎の長女として、奈良県吉野郡茄子原村で生れました。
戸籍上で最も古い名前は迎井新太郎の父・久三郎です。
ナツは明治36(1903)年、19歳のときに同じ村の吉岡豊治郎と結婚します。
その頃は茄子原村でなく、宗檜村大字茄子原と変わってます。
「茄子原」って気になる名前ですね。
五条市のページで「茄子原村関係文書 箱①」というPDFが公開されていました。
ここに書かれているものや郷土史など探して調べてみようと思います。
<迎井家直系系譜>
迎井久三郎→迎井新太郎→迎井ナツ(吉岡なつ)・・・
【吉岡家】奈良県吉野郡茄子原村→北海道上川郡士別村
私の曾祖母・吉田テルの実家・吉岡家についてです。
テルは私の父の母の母です。
テルは明治41(1908)年に吉岡豊治郎の二女として、奈良県吉野郡茄子原村(現:五條市)で生まれました。
吉原家は明治45(1912)年に北海道上川郡士別村に移住するのですが、士別村の戸籍で謎な部分があります。
テルは父の豊治郎の戸籍には居ないのです。長男、次男、三男、四男、長女、三女、四女、五女のテル以外の子供は豊治郎の戸籍に入っているのに、です。
二女のテルだけ、父・豊治郎の甥である吉岡藤一郎が戸主の戸籍に又叔母として入っていました。
豊治郎の茄子原村での戸籍があれば謎が解けるかもと思いましたが、残念ながら廃棄済みとのことで取得できず。残念です。
親子の仲が悪かったとか?
戸籍上で最も古い名前は豊治郎の父の父・吉岡忠兵衛でした。
その後、テルは昭和2(1927)年、20歳のときに吉田東一と結婚します。
テルと東一の子・妙子が私の父方の祖母です。
<吉岡家直系系譜>
吉岡忠兵衛→吉岡伊兵衛→吉岡豊治郎→吉岡テル(吉田テル)・・・
この吉岡家と吉田家、安原家の家系図を作ってみました。
【安原家】徳島県板野郡七條村
私の高祖父・吉田幸平の実家・安原家についてです。
幸平は私の父の母の父の父となります。
幸平は明治10(1877)年に安原音吉の四男として、徳島県板野郡七條村で生まれ、明治33(1900)年に23歳で婿養子として吉田家に入りました。
妻は吉田安蔵の二女・タケです。この時タケは22歳でした。
吉田家があったのは板野郡泉谷村で、七條村との距離はGoogleMapでみると5kmほど、徒歩で1時間ほどの距離です。
泉谷村は幸平の母・ヒサノ(板東米蔵の娘)の生まれた村なので、そちらでの繋がりがあったのかもしれません。
安原家で最も古い名は幸平の祖父・安原富蔵です。
幸平は松島村大字泉谷(旧泉谷村)で吉田家の戸主となり、その後明治38(1905)年に北海道川上郡神楽村へ移住します。幸平28歳のときです。
その後はこちらに繋がります。
<安原家直系系譜>
安原富蔵→安原音吉→安原幸平(吉田幸平 )・・・
【我妻家】宮城県刈田郡宮村
私の高祖母・平間なつの実家・我妻家についてです。
なつは私の父の父の母の母となります。
なつは明治11(1878)年に我妻甚右エ門の二女として、宮城県刈田郡宮村で生まれました。
戸籍上最も古い名は亡父として記載されている甚右エ門の父・勘右エ門です。
甚右エ門は勘右エ門の長男として生まれました。
そして、甚右エ門の母・志ゆんの父として記載されている平間源右エ門です。
志ゆんは平間源右エ門の二女として生まれました。
ここで新たな平間姓が出てきました。
しかも志ゆんが生まれたのが柴田郡沼田村であり、
私の直系の最も古い名の平間源三郎が住んだ地と同じです。
しかもどちらも名前に「源」が入っています。
もしかすると、この二人は兄弟かもしれません!
ただ、証拠は今のところなし。。
我妻家は甚右衛門の長男・勇が家督を相続します。
志ゆんと勇は北海道雨竜郡一已村で死亡しています。
また勇の三男・四男も雨竜郡で生まれています。
二男は宮城で生まれているようなので、大正2~4年あたりに北海道へ移住したと思われます。
私の高祖父の父・平間源吉が宮城から北海道上川郡上名寄村に入ったのが明治41年、
先に入っていた平間家を頼って北海道に渡ってきたのかもしれませんね。
色々と絡み合って分からなくなりそうなので、家系図をまとめてみました。
この我妻家と平間家、渡辺家を一つにしました。
そろそろ本腰入れて平間家を調べていかないとだめですね。
<我妻家直系系譜>
我妻勘右エ門→我妻甚右エ門→我妻なつ(平間なつ )・・・
【玉置家】十津川郷士について十津川村歴史民俗資料館に問い合わせてみた
下の記事で岸本先生から十津川村歴史民俗資料館に訊ねてみては?と
アドバイス頂いたので、問合せてみました。
ホームページが無いようでメールアドレスも公開されておらず、
住所と電話しか分からなかったので、手紙を出しました。
すると、お電話とその後メールにて連絡を頂きました。
玉置家が住んでいた玉垣内村と千葉家が住んでいた永井村の霊名簿は十津川村の「川合神社」に保管されているそうです。
ただ、普段は無人でお祭りのときにしか神主さんがいらっしゃらないため、お祭りの日を狙って訪問しないと霊名簿を見ることは出来ないだろう、とのこと。。
ハードルが高すぎます。。
しかし、川合神社から預かっている資料の中から、玉置勘二郎と千葉松治の名前がある古い戸籍簿を発見して頂きました。
この戸籍簿から色々分りました。
まずは、高祖父の父・玉置勘二郎の父・秀之助の母の名前が「こべん」だということ。「こべん」は勘二郎の妻と同じです。流行りの名前だったのでしょうか?
そして、秀之助の母・こべんの父の名は玉置大門(尤門?)だということ。
また、秀之助の父の名は、持っている戸籍では「漁之進」でしたが、こちらの戸籍簿では「源之進」でした。
「源」を「漁」に読み違えたのでしょうか。
確かに似てるといえば似てますね。薄目で見れば同じに見えます(笑)。
勘次郎の実父・千葉松治のほうも分かったことがあります。
千葉松治の妻は前倉常之丈の次女・うめ であること。
そして、勘次郎の兄・千葉正賢と姉・千葉せんの名です。
両家とも残念ながら1代遡ることは出来ませんでした。
いつか川合神社を訪れて、霊名簿を見てみたいですね。
玉垣内の玉置姓のお宅にお手紙を出したので、
そちらのお返事も期待しないで待ちます。