【玉置家】祖父の手記

私が8才の頃に亡くなった母方の祖父の手記を北見の伯母から送ってもらったので、

書き出してみる。

 

<<昭和63年記「生まれてから過去を振りかえってみた事」玉置冨雄>>

私の生まれた所

 川上郡弟子屈町屈斜路ポント市街地区29番通り

私の両親

 父・・・・玉置 久雄 昭和33年3月65歳で亡くなった。

 母・・・・玉置 カネ 母は現在84歳で健在である。

私の生年月日

 昭和2年3月10日、現在61歳

 

私がまだ小さい頃だったと思う。3才~4才ころだと思うがおたふく風邪をひいて熱を出して寝て居る時、春3月頃だと思うがものすごく強い風が吹き、家の屋根がとばされアッと思ったら屋根がなく青空が見えるではないか、おどろいたね。

それから何年たったか後に大地震がありました。私が小学校5年生位だったと思う。昭和13年(1938年)5月29日午前1時42分に発生、マグニチュード6.0の屈斜路湖底噴火地震。此時小学校5年生。

詳しくは下記の新聞記事に載っています。

***屈斜路湖底噴火から50年***

根室など道東で小規模な地震が頻発しているが、死者1、倒壊家屋多数の被害をもたらした屈斜路湖底噴火地震からこの29日で50年を迎える。同地震はほとんど忘れ去られているが、弟子屈は内陸型地震常襲地に挙げられており、改めて災害への注意を喚起する声が起きている。

マグニチュード6.0の屈斜路湖底噴火地震は、昭和13年(1938年)5月29日午前1時42分に発生した。和琴半島では大小の陥没穴から泥まじりの熱湯が噴出、熱湯津波も押し寄せた。コタンや丸山でも道路が陥没したり、家屋が地すべりで移動、倒壊し、1歳の女の子1人が落ちた天井の下敷きになって死亡。

弟子屈市街にも被害があった。また屈斜路湖名物のオビラメが全滅、以後魚はほとんど同湖に生息しなくなっている。

弟子屈周辺ではこのあと地震は一服するが、昭和34年から43年まで13回(マグニチュード4以上)発生、34年1月31日の地震は、奥春別で震度6を記録した。

このように「道内でも弟子屈地区は直下型地震の起きやすい所」(釧路気象台の報告書)と指摘されている。だが50年前の地震については、体験者が減っていることもあり、話題になることは少ない。釧路圏摩周観光文化センターの種市佐改資料室長は「災害は忘れたことにというが、今一度湖底噴火を検証してみる必要がある」と話す。

釧路公立大の岡崎由夫教授(地質学)も「雄阿寒岳の活動が焦点となっているが、弟子屈地区が全く安全とは言い切れない。湖の周辺は昔より施設などが増えており、同じ規模の湖底噴火でも被害は違ってくる。万一への備えは必要」と喚起している。

***

15才位までは学校へ行きながら子守と、ごはん炊き。と云ったって、お米はそんなにない時代で、いもとか、カボチャ、トウキビ、麦ごはん、そばだとか、そばだんご。夏期間はまだいいが、冬期間がひどかった。家には井戸などないから500メートル位の所まで水くみに行ったものだ。だいたいこんな事の繰り返し、何年か後に、仕事に山へ。

昭和17年の秋11月頃だと思った。父と二人で地元の今井林業の木材仕事でした。17年の12月まで。

16才の春1月の中頃だと思う。また、今井林業の山へ。美留和石狩別の山です。この山で雪の深い中を{トビ}という道具を使って木材出しをした。雪が多いから腰までつかり。夕方、飯場へ帰るのですが、そこでご飯をたべて寝るしたくをするのですが、下半身はびしょぬれでひどいもんだった。びしょぬれになったズボンは、ストーブのそばで乾かす事とそれを又つぎの朝着て山へ行くという毎日でした。それからその年の4月まででやめた。

こんどはその5月に和琴営林署の苗畑へ行って、苗畑作りしたり、苗作用の土作りしたり、この作業も2ヶ月くらいで完了。

こんどは山へ行って植林地を作る作業をする。その後、16才の秋11月で営林署をやめた。

 

<17才、川湯の鍛冶屋へ行っている頃(1944年頃)>

此の当時すでに大東亜戦争が始まっていた。軍事訓練をやらされた。そして標茶の小学校が私の能部隊(?)の二十六連隊でした。標茶小学校で20日間の訓練を受ける当時(陸軍二等兵のホシ1つです)、此の時、訓練中に空襲を受け、その時私は班長でしたが、全員を集め、防空壕に入れる。グラマン戦闘機が幾機も飛んできた。

 

5月頃から川湯の市街、今井鍛冶屋に行く。この月から朝4時に起きて、工場のホドに火を入れ火をおこし、仕事の段取りをして朝ごはんは6時頃でした。午前中は畑に使う鍬作りでした。大きなハンマー振りをして鍬を作った。1丁の鍬を作るのにハンマーを34回位振るのです。それでも、まだ仕上がらないのです。それで、午前中には5丁から6丁位作るのです。

午後からは馬の鉄を打ち、これも馬が2~3頭来て待っているので、とても忙しい毎日でした。1日の仕事を終えると、住宅へ行って台所の水汲みをしなければならなかった。水汲み場も家から50米位離れた所から天びん棒でバケツを2つかついで毎日夕方5時か6時頃、そのくりかえしが毎日でした。それから何年後かに工場の裏手に精米工場が出来て、又、精米工場の見廻りも私の仕事でした。その後で私の弟、光男が来たので助かった。その状態で何年か続き、鍛冶屋に8年位いた。

昭和20年の7月20日標茶小学校へ行き、ここで20日間の訓練を受け、8月10日で訓練を終え、家へ一旦帰りそれから又出直して川湯の鍛冶屋へ戻る・・・・8月末頃

 

その後、鍛冶屋をやめて川湯硫黄山へ行った。

此の時、昭和24年の12月から跡佐登鉱業所に勤める。川湯跡佐登鉱業所内の工作課に勤める。仕事は、まず1番初めに工場の機械の取付、酸素切断、電気溶接を使って修理組立・製作作業、此の時はまだ1人で合宿生活でした。

26年の秋10月中旬頃だったと思う、私の実家で結婚する。

当時はまだ何にもない時代で、内輪ものだけで式をすませたものでした。今のように新婚旅行なんてとても出来る時でなかったね。

・・・・私達の新婚旅行は小川さんのくみちゃんの結婚式に招待されて、飛行機で東京へ行って来た事が新婚旅行だね。今思えば、そんな気がする。

それから2年時の28年6月26日、お姉ちゃんが生まれる。3年後にひとみが生まれる。31年の11月20日

・・・・此の頃私の父が亡くなりました。お姉ちゃん、ひとみの祖父である。祖母は健在です。

11年経って、昭和38年の7月末までで休山(閉山)となった。

<仕事内容>

硫黄鉱山で鉱石粉砕機の修理、ホッパー製作、その他色々修理、工場用水パイプ配管作業、山の上が工場で山の下が社宅で、事務所裏の池から山の上の工場まで水道管の配管作業

38年の8月13日、跡佐登の社宅を後にしてトラックで美幌峠をこえて一路、留辺蘂へ向かう。

留辺蘂についたのがその日の3時頃でした。この日はまだお盆前で社宅の荷物の整理をして仕事に出たのは、お盆過ぎの17日からの仕事は、工場がまだ上町の現在の菊地商店の所に有ったが、前が鉄工所で後ろが整備工場となっていた。

その後、何年か後に2号線に工場が移転する。まだ上町に工場があった頃の仕事は、木工場のノコくずを送るサイクロホンジョウゴーの大きくしたような物でした。ロッキングという物も作った。ロッキングは木材山で使うもので木材を運搬する機械です。工場が2号線に移転してからは、鉄工場は鉄骨製作に変わり(鉄工場に居る時は仕事は、留辺蘂学校の階段とか手すりとかを作っていた。当時はたくさん作ったけどあまり憶えていない。今思えば、かなりの数を手がけたような気がする。)

2号線で整備工場はそのまま経営する。その何年か後、私は整備工場に廻り、ブルトーザの足廻り、ローラの肉盛り、自動溶接、半自動溶接、機械肉盛り、1日に1台分仕上げていたローラ1台分大小18ヶ仕上げる。このペースで忙しいときには、毎日3~4日間続く。そのほか色々修理・製作・板金加工等々、こうして整備で勤めてこのまま5年位続ける。

この後、昭和62年2月で会社倒産のため、失業すると同時に定年退職する。60才。

・・・出張仕事もあったので、冬山へ行って雪の中での仕事もあったね。。。。

<おわり>