【村上家】宮城県柴田郡沼田村→北海道空知郡音江村→網走郡網走町大字藻琴村→川上郡熊牛村大字熊牛村→斜里郡小清水村

私の曾祖母・平間たつのの実家・村上家です。

たつのは私の父の父の母です。

 

戸籍上で最も古い村上姓の名前は、たつのの高祖父・村上養助です。

私から見ると7世の祖父です。

取得できた最も古い戸籍は5世の祖父・安兵衛の兄・庄五郎が戸主のもの。

その中に高祖父・幸之助が入っていました。

この戸籍には安兵衛の叔父・運治郎が居て、その父として養助の名が分かりました。

 

6世の祖父・村上直助はこの庄五郎の父として名前だけ判明。

5世の祖父・村上安兵衛は高祖父・幸之助の父として名前だけ判明。

 

高祖父・幸之助は安兵衛の長男として万延元(1860)年に宮城県柴田郡沼田村で生まれました。

我が平間家と同じ村です。平間家は沼田村の18番地、村上家は62番地でした。

幸之助は同じ村で顔馴染みであったであろう、平間よしのと結婚します。

明治20(1887)年、幸之助は27歳、よしのは18歳でした。

 

村田町史にこの村上家に関係あるかもしれない記述がありました。

沼田村には、伊達氏が、仙台入府の前から村上氏一族が住んでいて勢力を張っていた。伊達氏の代となると、村上家に二十七石、七人扶持が与えられた。そして、どの代かは分からないが、この待遇に不満で、武士をやめ江戸に出て石になったという。

注:この記は、沼田で、村上氏の一族である村上金栄氏によった。

この村上一族に関係あるのか、今後の調査課題ですね。

 

5年後、明治25(1892)年に私の曾祖母である村上たつのが生まれます。

明治43(1910)年、18歳になったたつのは母・よしのの弟である平間源左衛門の養子となり、北海道上川郡上名寄村へ。

 

明治21(1888)年に分家していた幸之助は、大正5(1916)年に北海道空知郡音江村に入植しました。入植した経緯はわかりません。

平間家が入植した上名寄の次に移住した雨竜郡一已村の近くなので、平間家を頼って北海道へ渡ったのかもしれません。

 

「音江村開村50年史」という本があるのですが、「日本の古本屋」で9800円と少しお高いので、ポチッと出来ません。

地元の図書館で取り寄せてもらおうかと思います。

 

翌年の大正6(1917)年、幸之助一家は網走郡網走町藻琴村に移住しました。

東藻琴村史によると

大正5年

未だ鉄道の便なきため、移住上、困難を感じたが、地味天候二つながら良好、土地広漠、山林良材に富む。大地積の出願、農牧業を企図するもの多く、これに因をなし、小農移民が増加した。このときの網走町の戸数は3084戸、人口は1万6962人を数えた。

より良い土地を求めて移住したのでしょうか。

 

その後、大正14(1925)年に川上郡熊牛村大字熊牛村字ヌマオロ原野に移住しました。移住の経緯は不明。

昭和9(1934)年、この地で幸之助が死亡し、二男・幸治郎が家督相続。

幸之助は75歳でした。

 

2年後の昭和11(1936)年、幸治郎一家は斜里郡清水村大字士別村に移住。

この経緯も不明。

私の高祖母・よしのがこの戸籍に居たため取得できました。

よしのは昭和12(1937)年、戸籍は小清水町のままでしたが宮城県柴田郡船岡村で死亡しました。69歳でした。

 

<村上家直系譜>

村上養助→村上直助→村上安兵衛→村上幸之助→村上(平間)たつの

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▲祖父母の代までの村上家系図