【平間家】祖父・平間太四郎の話
主に父から聞いた話。
祖父・平間太四郎は北海道網走郡網走町で生まれた。
高祖父・源左ェ門の孫として北海道雨龍郡一已(いちやん)村の戸籍に入り、
1941年(19歳)のときに、曾祖父・吉五郎が分家し北海道川上郡標茶村沼幌に戸籍を移した事になっている。
しかし、父の話では、
太四郎は幼少から沼幌で暮らしており、小学校1~2年の頃に中久著呂の鍛冶屋に丁稚奉公に出された。
そこで3年ほど、クワやカマなど作っていたが、給金が少ないという理由で吉五郎によって、沼幌に戻された。
その際、自分で作ったクワなどをリヤカー1台分持ち帰ったそう。
その後すぐに、今度は弟子屈の鍛冶屋に奉公に出された。小学校高学年の頃である(1932~1934年頃?)。
ここも3年余りで、給金が良くない・面白くないとの理由で沼幌に戻ってきた。
その後、姉タマノ(曾祖母・たつのと前夫・及川周太郎の長女)の夫、高橋富義が雨竜郡一已(現在の深川市)で板金屋や鍛冶屋、水道屋のような仕事をしていたので、タマノのもとに世話になった。
そこで、富義と共にシマリナイ(朱鞠内)湖のダム工事などに従事した。
シマリナイ湖は日本最大の人造湖。雨竜第一ダムの完成により生じた。ダムの完成は1943(昭和18)年。
詳細はウィキペディアに詳しく書いてあるが、厳しい労働環境で命を落としたものを少なくなかったそう。
囚人や朝鮮人がタコ部屋労働をさせられていた。タコ部屋では丸太を枕にして寝ており、太四郎はそこの現場監督のようなことをやっており、枕の丸太をハンマーで叩いて労働者を起こしていたそう。
その後、召集令状が届いたことで再び沼幌に戻ってきた。
沼幌から旭川の歩兵連帯へ出征し、そこから樺太の前線警備に行った。
1945(昭和20)年、戦争は終わったが樺太で捕虜となり収容所へ入れられた。
そこで、ネズミやカエル、ヘビなどを食べていたそう。ネズミが一番美味かったらしい。。
樺太にはロシア人が多くいて、そのロシア人相手に「鋳掛け屋」(鍋などの鋳物製品の修理を行う仕事)をやって、重宝されていたそう。(関係無いが、落語に鋳掛け屋の話があるそう)
その後、シベリアに抑留され土地の開拓など強制労働させられたが、鋳掛け屋の能力が認められ、また樺太に戻された。
その後、引揚船で函館に帰ってきた。その際90円をもらった。
大金持ちだと喜んだが、羊羹1本買ったら40円でほとんど残らなかった。
残ったお金を持ってなんとか沼幌に戻ってきたが、弟の孝吉が結婚し家を継いでいたため、行く場所がなかった。
ちょうどその頃、標茶町磯分内でニッテンの工場を建設しており、土建屋・請負師から仕事を紹介してもらい、磯分内で鍛冶屋の仕事を始めた。
そして、若森さんという人の紹介で、吉田妙子と結婚し、本籍を磯分内(標茶町字熊牛原野)に移す。
なかなか波乱万丈な人生を送った祖父は2008年に亡くなりました。
曾孫を見せられなかったのが残念。
【小川家】広島県賀茂郡中黒瀬村→(北海道厚岸郡太田村)→北海道厚岸郡厚岸町→広島県呉市→北海道根室郡根室町
母方の祖母の家系・小川家。
北海道での小川家の歴史は、高祖父・小川又次郎の弟・小川兼吉が明治38年に厚岸郡大田村字片魚去番外地に分家することから始まります。
明治42年に厚岸の小川兼吉・ツルト夫婦と曽祖父・小川秀夫が養子縁組を結びます。
しかし、大正7年に曽祖父・小川秀夫は協議離縁し広島の又次郎の戸籍に復籍。
ただ、同じ大正7年に曽祖父・小川秀夫は大竹ミツヨと結婚し厚岸町長に届けているので、実際には広島には戻っていないと思われます。
厚岸町は、東北海道では最も早く開けたところだそうです。
でも入植がうまくいかなかったのか、曽祖父・小川秀夫は大正10年に広島県呉市大字和庄町に戻ります。7年後の昭和3年、祖母・トワ子が四女として誕生します。
そして再び、曽祖父・小川秀夫は昭和14年北海道根室郡根室町字大正町に入植(?)。
昭和14年だと入植というより、普通の引越しでしょうか??
11歳の祖母・トワ子含め二男四女と共にやってきます。
祖母・トワ子が私の家系では、唯一存命だった北海道への移住者だったのですが、
今年10月に91歳で永眠いたしました。晩年は痴呆も進んでいて、残念ながら話も聞けない状態でした。あと5年でも早く家系図作りを始めていれば、、と悔やんでも悔やみきれません。。
戸籍上、最も古い名前は高祖父・小川又次郎の父・小川又兵衛の父・小川新十郎です。
小川又兵衛は小川新十郎の三男で、広島県賀茂郡中黒瀬村切田13番屋敷に同村から分家しました。
この小川新十郎ですが、芸藩通志(安芸国広島藩の地誌)に名前があるようで、
誠意調査中です。そのうち記事に出来ればと思います。
<小川家直系譜>
小川新十郎→小川又兵衛→小川又次郎→小川秀夫→小川トワ子→母→私
【平間家】三度目の正直の旧土地台帳
またまたtさんより有力なと言うより、確かな情報頂いたので、
再々度、旧土地台帳を請求しました。
コメント頂いたときは気が付きませんでしたが、
平間政治は源吉の息子なので、相続が逆転?してますね。これは、、
戸籍によると源吉は明治8年に平間源三郎から相続し戸主となってましたが、
明治15年に「逃亡」し、三ヶ年が経過したため、明治20年に息子の政治が相続します。
(計算合わないですが、戸籍には上記のように書いてる。)
旧土地台帳は明治20年頃からの記録なので、最初の所有者が政治となっています。
しかし、明治22年に政治が死亡します。
なので、源吉が再相続という形で明治24年に再び戸主となります。
明治22年から24年の間の空白の2年はなんなのでしょう?
24年に源吉が「逃亡」から帰ってきたということでしょうか。
「逃亡」というのは勝手に本籍地を離れ、他国でも課役を負担してない状態、とのこと。何をやっていたのか、謎ですね。
そして明治37年12月に「半沢藤助」という人に所有権が渡っています。
戸籍上では、源吉が北海道上川郡上名寄村に転籍したのが明治41年となってますが、
実際は、4年前の明治37年~38年には北海道にいたのかもしれません。
ちなみに半沢という姓は、平間家の戸籍上のどこにも出てこないので、
まったく関係ない人でしょう。
「逃亡」「戸籍」で調べてみると、高校・日本史のページが沢山出てきますが、
授業で習った覚えがまったく無いです。
20年弱も昔のことだからでしょうか。高専だから習わなかったんでしょうか。
もっと歴史の勉強しておけばよかった!と思うことが多々あります。
【玉置家】奈良県吉野郡十津川村大字玉垣内→北海道川上郡屈斜路村御料地→常呂郡留辺蘂町
北海道での玉置家の歴史は高祖父の父・玉置勘二郎(1850~1939)が奈良県吉野郡十津川村大字玉垣内から北海道川上郡屈斜路村御料地(現・弟子屈)に入植したことに始まります。
高祖父・玉置岩太郎、ヤスノ夫婦と孫3人と一緒でした。妻・こべんは奈良県で明治39(1906)年に亡くなっています。
戸籍上で最も古い名は勘二郎の祖父・玉置漁之助です。養叔母・ま?(読めない)の父として出てきます。勘二郎の父・玉置秀之助も養妹・ふゆの父として名が出てきます。
実は勘二郎は千葉松治の二男で、千葉家から玉置家へ養子として入りました。
この千葉松治は戸籍に「奈良県吉野郡永井村士族」と書かれていました。
おぉ、武士か!?と思いましたが、この吉野郡の郷士達は「幕末での京都御所の警備や戊辰戦争での功績が認められ士族となりました。」とのことなので、正真正銘の武士かは微妙です。もう少し調査が必要ですね。
ちなみに、勘二郎の妻・こべんも玉置姓でこべんの父は玉置茂兵エです。
この2つの玉置家の関係は、戸籍からは分かりません。
こちらも調査が必要です。
屈斜路村に入植したのが大正3(1914)年です。
前にも書きましたが、時期的に十津川水害での移住とは関係なさそうです。
御料地を開拓し農業を始めたのでしょう。
その後、祖父・玉置冨雄の暮らしぶりについては、こちらの手記が詳しいです。
<玉置家直系譜>
玉置漁之助→玉置秀之助→玉置勘二郎→玉置岩太郎→玉置久雄→玉置冨雄→母→私
戸籍住民担当様ありがとうございます。
妻の家系を調べるため釧路市役所に戸籍を請求しました。
まずは妻の父の家系・庄司家から調べようと申請書を送ったのですが、
「他の姓はどうしますか?」と電話で確認が来たので「お願いします」と言ったところ、
妻の父の母の家系・増井家、妻の母の家系・武藤家、妻の母の母の家系・齊藤家の合計4家系分をすべて送って頂いた。
皆さん釧路だったのもラッキーでしたね。
次の請求するべき役所(秋田県由利本荘市、福島県棚倉市、豊浦町、山形県酒田市)も調べて頂いたし、請求書も同封して頂いたし、至れり尽くせりです。
かなりやり手の担当様だったようです。
定額小為替を多めに入れておいて良かった。
一気にやることが増えて嬉しい悲鳴。ひぇー。
ご先祖様達はどうやって北海道に来たのか?
それぞれ江戸時代に住んでいた地から入植した地に線を引いてみたが、これでは飛行機で来たようである。
調べてみると、北海道への移動手段として「北前船」というものがあったようだ。
平間家は東回り航路にて宮城県から青森、函館を経由して小樽で上陸し陸路で名寄まで。
吉田家は徳島県から西回り航路にて小樽で上陸し、陸路で旭川まで。
玉置家は奈良県から西回り航路で釧路で上陸し陸路で弟子屈まで。
という感じかなと妄想してます。
北海道までいったい何日かかったんでしょうか。。
航路に沿って線を引いてみるとこんな感じになりました。
最近、小4の息子と一緒に都道府県を覚える競争をしているので日本地図を見るのが楽しい。
【平間家】宮城県の旧土地台帳
コメントでtさんから情報いただいたので、宮城県の平間源三郎と渡辺留吉の旧土地台帳を仙台法務局大河原支局に請求しました。
①平間源三郎
沼田村の地引帳(明治八年)に字地の内に平間源三郎という名があったと情報いただきました。
一番新しそうなのが宮城県柴田郡沼辺村大字沼田十八番地。以前はこれで請求しましたが小字が分からないからとのことでダメでした。
なので、今回は宮城県柴田郡沼辺村大字沼田字地の内十八番地として請求してみました。
結果としては、
その地番の旧土地台帳はあるが、平間という名前は無いとのこと。。
名前がないとのことで、コピーはもらいませんでしたが、もらっておけばよかった。。
地引帳に番地の記載は無かったとのことでしたので、番地がちがうのか、小作人であったのか。。
ゼンリンの地図で字地の内に平間姓の方が住んでらっしゃることが分かったので、その地番でも請求しました。その結果がこちら。
そこには平間平太郎と平間今朝蔵?今朝松?という名がありましたが、
残念ながら戸籍で辿れたご先祖の中には無い名前でした。ご親戚なんでしょうか。。
②渡辺留吉
こちらもtさんから情報頂いて、もう一度戸籍をじっくり見てみたところ、小字まで書いてある箇所を発見。宮崎県柴田郡柴田町大字船岡字新町三十六番地でした。
その結果がこちら。
渡辺留吉の名前があります!昭和十三?年に所有権移転している渡辺徳蔵は留吉の長男で、私の高祖父・吉五郎のお兄さんです。留吉の前の所有者は平井源次郎という方で、留吉の父・渡辺儀七ではありませんでした。
数年で堀籠、嶋貫、飯渕、平井と所有者が変わっていくのは何故なんでしょうね。
私の家系の戸籍はだいたい揃ってきたので、次は妻の家系に手を出していこうかなと思っていましたが、旧土地台帳を色々取り寄せてみるのも面白そうですね。タダですし。
【吉田家】徳島県板野郡松島村→北海道上川郡神楽村(旭川市)→多寄村(名寄市)→川上郡熊牛村(標茶町)
父の母の家系【吉田家】の北海道での歴史は、高祖父・吉田幸平(1877~1946)が徳島県板野郡松島村から北海道上川郡神楽村(現旭川市)に入植したことに始まります。
妻・タケと四男三女と共にやってきました。
戸籍上で最も古い名は、幸平の義父・吉田安蔵の父・吉田傅蔵です。幸平は安原家からの養子でした。妻・タケの父が吉田安蔵です。
徳島県から北海道上川郡神楽村字忠別御料地に入植したのが明治38(1905)年。
下記資料によると、明治38年の徳島県板野郡から北海道への入植者は403人とのこと。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjhg1948/38/5/38_5_387/_pdf
その後、多寄村字風連別御料地に移住したのが明治43(1910)年。
1920年に「神楽村御料地争議」というのがあったらしいですが、
年代的に関係なさそうですね。
その後、川上郡熊牛村に移住したのが大正7(1918)年。
この頃には孫8人(祖母・妙子を含む)を加えて戸籍上は21人です。
ただ、標茶町史考(後編)によると、大正6年の入植者4人の中に吉田幸平の名があります。明治時代の山梨県などからの団体入植者は熊牛村の地味の劣悪さと悪天候による凶作により定着しなかったそうですが、大正時代の入植者は道内開拓地より転入した者が多かったそうで、開拓の経験があったため自立精神に富み、定着率が高かったそうです。
同じく標茶町史考に曾祖父・吉田東一の言葉が書かれていました。磯分内市街の防風林北方に入植した東一は「楊や榛の切り株がいくつも残っており、その間に畦らしい跡もあったが、小灌木や雑草に覆われていて他と見境がつかなかった」と入植当時の状況を語ったそうです。
そして、もう一つ、標茶町最初のサイロを建設したとして、昭和16年の写真が標茶町史考に載っていました。誰が東一なのかは不明ですが、この時祖母・妙子は12才なので、制服をきた女の子がだぶんそうです。なんとなく面影あります。
その後、妙子は祖父・平間太四郎と結婚しました。
<吉田家直系譜>
吉田傅蔵→吉田安蔵→吉田(安原)幸平→吉田東一→平間妙子→父→私
同窓会
で1泊2日の北海道帰省。
寒いですね。駅前の古本屋で郷土史探して、じいちゃんの墓参りするのが今回の裏ミッション。
2019/12/11追記
飛行機が間に合わず参加できなかったのですが、
小学校開校100周年記念式典が開催されており、そのついでに行われた同窓会でした。
小学校のホームページで式典の様子のチラシが公開されてました。
http://town.shibecha.ed.jp/isobunnai-e/htdocs/?action=common_download_main&upload_id=79
実は女優の高橋惠子が卒業生で、来てくれたそうです。
会いたかったなぁ。友達は一緒に写真撮ってもらったそうです。
私が通っていたころも子供は少なかったですが、今は全校生徒で30人程度。
中学校はすでに廃校となってます。。
どんどん廃れていきますね。