【迎井家】奈良県吉野郡茄子原村

私の高祖母・吉岡ナツの実家・迎井家についてです。

ナツは私の父の母の母の母です。

 

ナツは明治19(1886)年に迎井新太郎の長女として、奈良県吉野郡茄子原村で生れました。

 

戸籍上で最も古い名前は迎井新太郎の父・久三郎です。

 

ナツは明治36(1903)年、19歳のときに同じ村の吉岡豊治郎と結婚します。

その頃は茄子原村でなく、宗檜村大字茄子原と変わってます。

「茄子原」って気になる名前ですね。

五条市のページで「茄子原村関係文書 箱①」というPDFが公開されていました。

ここに書かれているものや郷土史など探して調べてみようと思います。

 

<迎井家直系系譜>

迎井久三郎→迎井新太郎→迎井ナツ(吉岡なつ)・・・

 

f:id:kensuke1108:20200329232948j:plain

▲迎井家の家系図

 

【吉岡家】奈良県吉野郡茄子原村→北海道上川郡士別町

私の曾祖母・吉田テルの実家・吉岡家についてです。

テルは私の父の母の母です。

 

テルは明治41(1908)年に吉岡豊治郎の二女として、奈良県吉野郡茄子原村(現:五條市)で生まれました。

 

吉原家は明治45(1912)年に北海道上川郡士別村に移住するのですが、士別村の戸籍で謎な部分があります。

テルは父の豊治郎の戸籍には居ないのです。長男、次男、三男、四男、長女、三女、四女、五女のテル以外の子供は豊治郎の戸籍に入っているのに、です。

二女のテルだけ、父・豊治郎の甥である吉岡藤一郎が戸主の戸籍に又叔母として入っていました。

 

豊治郎の茄子原村での戸籍があれば謎が解けるかもと思いましたが、残念ながら廃棄済みとのことで取得できず。残念です。

親子の仲が悪かったとか?

 

戸籍上で最も古い名前は豊治郎の父の父・吉岡忠兵衛でした。

 

その後、テルは昭和2(1927)年、20歳のときに吉田東一と結婚します。

テルと東一の子・妙子が私の父方の祖母です。

 

<吉岡家直系系譜>

吉岡忠兵衛→吉岡伊兵衛→吉岡豊治郎→吉岡テル(吉田テル)・・・

 

この吉岡家と吉田家、安原家の家系図を作ってみました。

f:id:kensuke1108:20200327222744j:plain

▲吉田家、安原家、吉岡家の家系図


 

【安原家】徳島県板野郡七條村

私の高祖父・吉田幸平の実家・安原家についてです。

幸平は私の父の母の父の父となります。

幸平は明治10(1877)年に安原音吉の四男として、徳島県板野郡七條村で生まれ、明治33(1900)年に23歳で婿養子として吉田家に入りました。

妻は吉田安蔵の二女・タケです。この時タケは22歳でした。

 

吉田家があったのは板野郡泉谷村で、七條村との距離はGoogleMapでみると5kmほど、徒歩で1時間ほどの距離です。

泉谷村は幸平の母・ヒサノ(板東米蔵の娘)の生まれた村なので、そちらでの繋がりがあったのかもしれません。

 

安原家で最も古い名は幸平の祖父・安原富蔵です。

 

幸平は松島村大字泉谷(旧泉谷村)で吉田家の戸主となり、その後明治38(1905)年に北海道川上郡神楽村へ移住します。幸平28歳のときです。

 

その後はこちらに繋がります。

kensuke1108.hatenablog.com

 

 

<安原家直系系譜>

安原富蔵→安原音吉→安原幸平(吉田幸平 )・・・

【我妻家】宮城県刈田郡宮村

私の高祖母・平間なつの実家・我妻家についてです。

なつは私の父の父の母の母となります。

なつは明治11(1878)年に我妻甚右エ門の二女として、宮城県刈田郡宮村で生まれました。

戸籍上最も古い名は亡父として記載されている甚右エ門の父・勘右エ門です。

甚右エ門は勘右エ門の長男として生まれました。

そして、甚右エ門の母・志ゆんの父として記載されている平間源右エ門です。

志ゆんは平間源右エ門の二女として生まれました。

 

ここで新たな平間姓が出てきました。

しかも志ゆんが生まれたのが柴田郡沼田村であり、

私の直系の最も古い名の平間源三郎が住んだ地と同じです。

しかもどちらも名前に「源」が入っています。

もしかすると、この二人は兄弟かもしれません!

ただ、証拠は今のところなし。。

 

我妻家は甚右衛門の長男・勇が家督を相続します。

志ゆんと勇は北海道雨竜郡一已村で死亡しています。

また勇の三男・四男も雨竜郡で生まれています。

二男は宮城で生まれているようなので、大正2~4年あたりに北海道へ移住したと思われます。

 

私の高祖父の父・平間源吉が宮城から北海道上川郡上名寄村に入ったのが明治41年

そして雨竜郡一已村に移住したのが明治44年あたりなので、

先に入っていた平間家を頼って北海道に渡ってきたのかもしれませんね。

 

色々と絡み合って分からなくなりそうなので、家系図をまとめてみました。

この我妻家と平間家、渡辺家を一つにしました。

そろそろ本腰入れて平間家を調べていかないとだめですね。

 

f:id:kensuke1108:20200327223239j:plain

▲平間家、我妻家、渡辺家の家系図

 

<我妻家直系系譜>

我妻勘右エ門→我妻甚右エ門→我妻なつ(平間なつ )・・・

【玉置家】十津川郷士について十津川村歴史民俗資料館に問い合わせてみた

下の記事で岸本先生から十津川村歴史民俗資料館に訊ねてみては?と

アドバイス頂いたので、問合せてみました。

kensuke1108.hatenablog.com

 

ホームページが無いようでメールアドレスも公開されておらず、

住所と電話しか分からなかったので、手紙を出しました。

すると、お電話とその後メールにて連絡を頂きました。

 

玉置家が住んでいた玉垣内村と千葉家が住んでいた永井村の霊名簿は十津川村の「川合神社」に保管されているそうです。

ただ、普段は無人でお祭りのときにしか神主さんがいらっしゃらないため、お祭りの日を狙って訪問しないと霊名簿を見ることは出来ないだろう、とのこと。。

ハードルが高すぎます。。

 

しかし、川合神社から預かっている資料の中から、玉置勘二郎と千葉松治の名前がある古い戸籍簿を発見して頂きました。

 

この戸籍簿から色々分りました。

まずは、高祖父の父・玉置勘二郎の父・秀之助の母の名前が「こべん」だということ。「こべん」は勘二郎の妻と同じです。流行りの名前だったのでしょうか?

そして、秀之助の母・こべんの父の名は玉置大門(尤門?)だということ。

また、秀之助の父の名は、持っている戸籍では「漁之進」でしたが、こちらの戸籍簿では「源之進」でした。

「源」を「漁」に読み違えたのでしょうか。

確かに似てるといえば似てますね。薄目で見れば同じに見えます(笑)。

 

勘次郎の実父・千葉松治のほうも分かったことがあります。

千葉松治の妻は前倉常之丈の次女・うめ であること。

そして、勘次郎の兄・千葉正賢と姉・千葉せんの名です。

 

両家とも残念ながら1代遡ることは出来ませんでした。

いつか川合神社を訪れて、霊名簿を見てみたいですね。

 

玉垣内の玉置姓のお宅にお手紙を出したので、

そちらのお返事も期待しないで待ちます。

【土井家】広島県賀茂郡兼沢村

私の高祖母・小川ロヨの実家・土井家です。

 

戸籍から分かっていた名前はロヨの父・土井敬左衛門だけでしたが、、

 

小川家のときも参考にさせていただいたページ

nehori.com

の兼沢村の項目を見てみると、

庄屋 土居敬左衛門 天保3年

長百姓 土居敬左衛門 慶応2年 

 「土井」でなく「土居」ですが、同じ名前。期待が高まります。

同じ項目に、

下記の文献が残っている。

・内田家文書(賀茂郡兼沢村戸長・村会議員を勤めた内田家に伝来した文書)
・土井家文書(賀茂郡兼沢村で給庄屋を勤めた土井家に伝来した文書)

とあったので、検索してみると兼沢村の土井家が残した「作帳」というものがあり、その作帳について検討した本「安芸国土井家作帳の研究 後藤陽一著」というものが出ていることが分かったので、いつもの「日本の古本屋」で購入しました。

 

この本によると「作帳」とは、

天明7年から明治20年まで101年間のあいだ、兼沢村の土井要蔵、その子・治兵衛、さらに治兵衛の子・敬左衛門の三代に渡って書き継がれたものである。

 

年次を追って記載内容に多少の疎密はあるが、101年間を通してほとんど記録を欠かないのは米の収穫量。その他、裏作の麦などの収穫量。農繁期の労働組織について、人員や賄い。気象や他村内外の事件等についても記載されたもの。

 

その中身についてはよく分かりませんが、几帳面な人たちだったようです。

 

また、こんな記載もありました。

土居は屋号で、本姓は内田であったが、明治3年平民に氏の称が許可されたので、屋号をとって姓とされたもののようである。しかも土井と称されたので、本文はすべて土井家に統一した。

土井=土居だとわかりました。

 

治兵衛が筆録した「村方諸色旧記帳」も史料として収録されていて、このなかには

土井家は足利尊氏に仕えた内田左京亮貞友の後裔と伝え、万治以降代々長百姓を勤めたとあります。また、代々の名や「縁段之覚」など貴重な情報満載でした。

持っている戸籍の情報と合わせてみるとこんな感じになりました。

f:id:kensuke1108:20200303235246j:plain

土井家

年代的にも、檜原家との繋がり的にも間違い無いのではと思います。

高祖父・小川又次郎の母・リセと高祖母・ロヨの母・たきが姉妹だと分りました。

高祖父母はいとこ同士の結婚だったのですね。

 

 かなり遡ることが出来ました。

家系で分かったことはここまでですが、

「作帳」についてはもう少し読んでみようと思います。

古民家山十邸

つるし雛を見に近所の古民家山十邸に行ってきました。

f:id:kensuke1108:20200301121821j:image

f:id:kensuke1108:20200301121852j:image

ここは明治16(1883)年に建設された中津地区の豪農熊坂半兵衛の邸宅として作られたそうです。「山十」は屋号。半原の宮大工棟梁として知られる矢内家の三兄弟、右仲・左仲・左文治によって建てられたそうです。戦前の思想家大川周明が明治19(1944)年に購入し、昭和32(1957)年まで住んでいたとのこと。

 

明治初期の様子を描いた絵がありました。

f:id:kensuke1108:20200301135221j:image

 

大川周明について

f:id:kensuke1108:20200301135321j:image

 

近隣の郷土史が沢山!

f:id:kensuke1108:20200301135435j:image
f:id:kensuke1108:20200301135419j:image
f:id:kensuke1108:20200301135427j:image
f:id:kensuke1108:20200301135415j:image
f:id:kensuke1108:20200301135431j:image
f:id:kensuke1108:20200301135423j:image

 

「永朝法印」愛用の駕籠

f:id:kensuke1108:20200301135815j:image
f:id:kensuke1108:20200301135533j:image

 

【庄司家】新潟県の羽越本線・新発田駅と村上駅の官舎について

下記の記事書いた、戸籍に書かれた駅 羽越本線新発田駅村上駅の官舎についてです。

kensuke1108.hatenablog.com

 

羽越本線というのは、新潟県新潟市の新津駅から日本海沿岸を経て秋田県秋田市秋田駅までを結ぶ路線だそうです。路線についての詳細はウィキペディアなどで分かるのですが、官舎については書かれていません。

ja.wikipedia.org

 

越後の停車場」という本を読んでみましたが、当時の駅の写真はあるのですが官舎については記載なし。

 

羽越線資料館」というHPの掲示板で聞いてみましたが、官舎については調べるのが難しいのでは。とのこと。

官舎というのは平たく言うと、駅で働く鉄道員のための社宅です。かつてはどこの駅にも少なくとも駅長官舎があったようですが、無人化などで殆どなくなっているようです。
鉄道趣味の中でも直接鉄道とはあまり関係ない官舎のことは、なかなか調べるのが難しいと思います。
当時は国有なので、登記もありませんし、そのころは今のように住宅地図もなかったと思うので。。
当HPにも掲載している駅の構内図(主に線路の配線図)にも、官舎は記載されていません。
官報の中に、建設の際の入札公告が出ている可能性がありますが、検索できないので一枚一枚見ていく必要があり、現実的ではありません。
可能性としては、新発田市村上市の図書館に聞いてみるくらいしか思い当たりません・・。 

 

新潟県立図書館のメールリファレンスで聞いてみました。

当館所蔵資料を確認したところ、両駅の鉄道官舎について記述がある資料は見つかりませんでした。ただ同時期の鉄道官舎に関しては、下記(1)~(4)の資料に、同時期の両駅や駅周辺の写真については、下記(5)~(11)の資料に記述がありました。なお、同じ写真が複数の資料に掲載されているものもすべてご紹介しています。

 

(1)『三十年史』(日本国有鉄道新潟支社修史委員会/編 日本国有鉄道新潟支社1967)

「第6編 施設」の項内p485~487「5 宿舎および寮」には、新発田や村上についての記述はありませんが、支社開局からの宿舎の状況について写真を交えつつ記述があります。その中には、「管内で最も古い新井駅構内宿舎3号と平面図」として明治35年建築の宿舎の写真と平面図が掲載されています。

 

(2)『日本国有鉄道百年史』第7巻(日本国有鉄道 1971)

p396~397には「標準官舎一覧表」として、昭和5年頃と思われますが、官舎の種別ごとに構造や広さ、部屋数などを紹介しています。

 

(3)『羽越本線の90年』(瀬古龍雄/[ほか]監修 郷土出版社 1997)

「大正を貫く開業への槌音」の項内p40~42には、大正時代の新発田駅や駅周辺の写真が掲載されています。またp46、74~75には、同じく大正時代の村上駅の写真が掲載されています。

 

(4)『新潟県の100年』第4交通・産業編(新潟日報事業社出版部/編 新潟日報事業社出版部 1985)

「陸蒸気走る」の項内p92に大正中期の、p83には大正元年頃の新発田駅の写真が掲載されています。

 

(5)『新発田市史』下巻(新発田市史編纂委員会/編 新発田市 1981)

羽越線の開通」の項内p453~454に、新発田駅駅前通りの写真が掲載されています。

 

(6)『昔のしばたの暮らし』(ふるさと伝承記録刊行会/編 ぎょうせい 1987)

「鉄道」の項内p20に、大正元年新発田駅の写真2点が掲載されています。

 

(7)『目で見る新発田・豊栄・北蒲原郡の100年』(佐久間惇一/監修,高橋礼弥/監修 郷土出版社 1993)

「大正期の出来事」の項内p52~53に、大正元年新発田駅と大正初期の新発田駅前広場の写真が掲載されています。

 

(8)『ふるさとの百年 新発田・北蒲原第2』(新潟日報事業社出版部/編 新潟日報事業社 1982)

「町並み」の項内p10に、大正後期の駅前通りと大正元年の駅前付近の写真が掲載されています。

 

(9)『ふるさと新発田』(郷土出版社 2007)

「交通の変遷」の項内p160~161に大正元年新発田駅と大正3年ごろの駅構内の写真が掲載されています。

 

(10)『目で見る村上・岩船の100年』(大場喜代司/監修 郷土出版社 1993)

羽越線の開通」の項内p64に大正3年の村上駅の写真が掲載されています。

 

(11)『ふるさとの百年 村上・岩船』(新潟日報事業社出版部/編 新潟日報事業社 1981)

「鉄道のむかし」の項内p33に大正13年の村上駅の写真が掲載されています。

 

ドンピシャはありませんでしたが同時期の官舎について書かれた資料があるようなので、それらからご先祖の暮らしが想像できればいいな、と思います。

【渡辺家】宮城県柴田郡船岡村

私の曾祖父・平間吉五郎は1893(明治26)年に、宮城県柴田郡船岡村の渡邉留吉の四男として生まれました。その後、平間源左エ門の養女・たつのの婿養子として平間家に入りました。

 

 戸籍上で最も古い名前は、吉五郎の父の父・渡辺儀七です。名前のみ判っています。吉五郎の父・留吉(1856~?)は、1880(明治13)年に宮崎県刈田郡宮村の平間角治の三女・けさよ(1858~?)と結婚します。留吉24歳、けさよ22歳です。

けさよの家系の平間家と、私の家系の平間家の繋がりは残念ながら判っていません。戸籍も取得出来ませんでした。

 

源左エ門の姉・ふさが留吉の甥にあたる渡辺今朝治郎と結婚していたり、船岡村の渡辺家との繋がりは不明ですが柴田郡大河原村の渡辺家からも平間家に養子に来ているので、平間家と渡辺家は関係が深かったようです。

 

重要な家系なので渡辺家について詳細が知りたいところです。

 

<渡辺家直系系譜>

渡辺儀七→二男・渡辺留吉→四男・渡辺吉五郎(平間吉五郎)

家紋:?

直系家系図

現時点での直系家系図を作成したので載せてみます。

まだまだ請求出来る家系がありますが、子供世代から見ると壮大ですね。

 

kensuke1108.hatenablog.com

 

公開できないかもしれませんが、

弟からの依頼で、弟の奥さんの家系も調査中です。