X(Twitter)のアカウント「機械屋」が乗っ取られてしまい、凍結してしまいました。残念です。
【小川家】駅逓所の取扱人
Twitterにて、ゆかけいゆうパパ@先祖探し(@yukakeiyu)さん / Twitter
から情報をいただきました!
私の先祖の名前がこのページにあったとのことでした。
たしかに片無去(かたむさり)駅逓所(えきていじょ)の取扱人七代として、私の曾祖父(母母父):「小川秀夫」の名前ががありました!
そして、同じく取扱人八代には秀夫の叔父である「小川謙吉(戸籍では兼吉)」、九代には兼吉の妻である「つる」の名前がありました。
戸籍を見てみると、
小川兼吉夫婦は明治38年に広島県賀茂郡中黒瀬村からここ北海道厚岸郡大田村の字片無去番外地に移住しています。
そして秀夫は叔父夫婦と養子縁組という形で明治42年に北海道にやってきます。
そして、大正7年に協議離縁して一度広島に戻るので、そのタイミングで兼吉に引き継いだのでしょう。
そしてそして、兼吉は大正20年に亡くなったので、妻つるに引き継いだのでしょうね。
この駅逓所の設置が明治23年、廃駅が昭和2年とのことなので、年代的にも一致します。
そもそも「駅逓所」というものを私は知りませんでした。
ウィキペディアによると、
駅逓所(旧字体:驛遞所、えきていじょ・えきていしょ)は、幕末から昭和初期の北海道において、旅人の宿泊や、運送、郵便の役割を担った施設である(宿場)。 駅逓とは、幕末から昭和初期まで北海道辺地の交通補助機関として、宿泊・人馬継立 ・郵便などの業務を行う制度。その運営者は、駅逓取扱人。
だそうです。
このページも詳しく書いてました。
「小川つる」の名前はこのページにもありました。
家督相続人であれば女性も取扱人になれたそうです。
駅逓情報の2号です。http://ekiteijyoho.web.fc2.com/fleece/pdf/et2.pdf
久々の更新でした。以上です。
現代語訳 吉野郡水災誌 十津川村編
ネットのニュースで出版されたことは知っていましたが、Amazon等で買えなかったので、出版元の永井書林さんに電話して送って頂きました。
書籍代:4500円
送料:500円
かなりボリュームがあるので、じっくり読み進めていこうと思います。
最近仕事が忙しく、なかなかご先祖様調べが出来ていませんが、今年も地道に続けていければと思います。
【上家】「紀伊国名所図会」に見る円明寺村
私の曾祖母・玉置カネの実家・上家が住んでいた円明寺村についてなにか分かればと、ネットで見つけた本を買ってみました。
2011年に和歌山県立博物館で開催された特別展「中世の村をあるくー紀美野町の歴史と文化ー」の図録です。オールカラーで203pp.

「第三章 真国川流域をあるく」の「第三節 神人と山伏とー石走村ー」に円明寺村についての記述がありました。
円明寺村は細野荘の領域にあり、中世には石走村と呼ばれていたようです。
現在の細野地域(細野荘)は、中世には石走村(いしはしりむら)と呼ばれていました。神野・真国荘は東隣の鞆淵荘と石走村の領有をめぐって争いをします。そのため、石清水八幡宮の神人と、天野社の長床衆とが激しく戦った場所です。また荘園の内部でも、公文職をめぐって志賀野氏と長床衆とが争っていました。中世を通じて、係争地となっていました。
「紀伊国名所図会」という書物にある円明寺村の絵図が載っていました。

調べてみると、国立国会図書館デジタルコレクションで見ることができるようです。
図録に載っていた部分は三編(三之巻)の42ページにありました。
(自分で一通り探しても見つからず、妻に探してもらったらすぐ見つかりました。。)


細野郷について書いてありますが、なんて書いてあるか読めない。。
この本はなかなか面白くて、
幽霊とか


龍とか

寺院を火から守る龍と神様?とか

絵を見てるだけでも面白い。
いくつか更新しました。
私と妻の家系まとめ
ネットで見た形式で作ってみた。
養子に入っている先祖のところはどうするか迷いましたが、
実父母でなく家系的な父母を書いてます(平間たつの など)。
高祖父母までしか判明してない家系がちらほら。


梅雨が明けて暑いですね。
妻の直系尊属まとめ、ランキングなど
妻の方もほぼ戸籍を取得し終わったので、
前に自分の方をまとめたのと同じようにまとめてみる。
- 戸籍から判明したご先祖
| 曾祖父母 | 8/8人 |
| 高祖父母 | 16/16人 |
| 五世祖父母 | 24/32人 |
| 六世祖父母 | 23/64人 |
| 七世祖父母 | 7/128人 |
- 直系尊属(養子先含む)の名字ランキング(名字由来ネット調べ)
| 直系尊属の名字ランキング(養子含む) | (名字由来net) | |||
| 全国順位 | 全国人数 | |||
| 1 | 打矢 | 8949 | 870 | |
| 2 | 竹野 | 1724 | 9200 | |
| 3 | 石沢 | 1054 | 17100 | |
| 4 | 増井 | 973 | 18800 | |
| 5 | 小玉 | 856 | 22100 | |
| 6 | 吉井 | 486 | 40900 | |
| 7 | 窪田 | 396 | 51900 | |
| 8 | 庄司 | 357 | 56700 | |
| 9 | 梅田 | 334 | 63500 | |
| 10 | 武藤 | 242 | 90100 | |
| 11 | 角田 | 241 | 90800 | |
| 12 | 小野寺 | 228 | 94700 | |
| 13 | 高山 | 183 | 112000 | |
| 14 | 水野 | 105 | 173000 | |
| 15 | 武田 | 89 | 198000 | |
| 16 | 石田 | 59 | 264000 | |
| 17 | 藤原 | 48 | 294000 | |
| 18 | 金子 | 46 | 295000 | |
| 19 | 阿部 | 25 | 440000 | |
| 20 | 森 | 22 | 540000 | |
| 21 | 齋藤 | 19 | 463000 | |
| 22 | 佐々木 | 13 | 669000 | |
| 23 | 渡辺 | 6 | 1063000 | |
| 24 | 鈴木 | 2 | 1791000 | |
私の家系に比べると、比較的メジャーな名字が多いですね。
一番珍しいのは「打矢」。名字由来ネットによると秋田県、次いで北海道に多い名字らしいです。
この打矢家も秋田県の家系。
- 北海道に入植した年ランキング
妻も北海道出身なので、いろんな場所から来ています。
| 北海道に入植した年 | FROM | TO | |
| 水野家 | 明治20年 | 富山県中新川郡弓庄村 | 樺戸郡浦臼村 |
| 吉井家 | 明治28年 | 香川県阿野郡山内村 | 空知郡奈江村 |
| 増井家 | 明治33年 | 新潟県西蒲原郡横戸村 | 虻田郡弁辺村 |
| 斎藤家 | 大正7年 | 山形県飽海郡上郷村 | 釧路市川上町 |
| 梅田家 | 昭和6年 | 福島県双葉郡幾世橋村 | 白糠郡音別村 |
| 武藤家 | 昭和11年 | 福島県東白河郡高野村 | 白糠郡音別村 |
| 庄司家 | 昭和28年 | 秋田県由利郡下川内村 | 釧路市桜ヶ岡 |
一番早いのは水野家の明治20年。私の方は明治15年の大竹家でした。
私の方もですが、何故北海道に渡ってきたのか?は不明です。
- 戸籍を請求した市町村と取得できた数
| 戸籍を請求した市町村 | 所得できた数 | |
| 北海道釧路市 | 13 | |
| 秋田県由利本荘市 | 5 | |
| 北海道虻田郡豊浦町 | 5 | |
| 福島県双葉郡浪江町 | 4 | |
| 北海道砂川市 | 3 | |
| 福島県東白川郡棚倉町 | 3 | |
| 秋田県秋田市 | 2 | |
| 山形県酒田市 | 2 | |
| 山形県米沢市 | 2 | |
| 新潟県村上市 | 2 | |
| 北海道虻田郡洞爺湖町 | 1 | |
| 北海道樺戸郡浦臼町 | 1 | |
| 秋田県大仙市 | 0 | |
| 新潟県新潟市 | 0 | |
| 富山県中新川郡立山町 | 0 | |
| 香川県高松市 | 0 | |
請求したのは16市町村。妻の家系はあまり北海道内で移動してないから少ないのかな。
私の家系は21市町村でした。
妻の方は、同姓に手紙を書いたり郷土史を調べてみたりは全然出来てないんだけど、
まずは自分の方を優先かなぁ。。
【玉置家】5世祖母の兄弟が・・
最近、玉置家が住んでいた奈良県吉野郡玉垣内村があった十津川村西区の区長さんにいろいろ調べて頂きまして、いろいろ分かりました。
その中でも、久しぶりなので軽いネタから。
私の5世祖母(母父父父母)の玉置こべんが十津川村の2代目、3代目の十津川村村長だった「玉置明亮」さんの兄弟だったそうです。
調べてみると、
十津川かけはしネットというHPの十津川探検~十津川人物史~というコーナーに玉置明亮さんについてかかれたページがありました。
ここによると、「嘉永5年(1852)12月4日重里に生まれる。」とあります。
こべんのほうが13歳年上のお姉さんということになります。
残念ながらこべんが嫁いでくる前の戸籍は取得できてないので、戸籍で証明はできませんが、区長さんのいうことなので間違いではないと思ってます。
他になにか資料がないかと奈良県立図書情報館にレファレンスしてみましたが、詳しい資料はありませんでした。
【回答】
玉置明亮氏について、当館資料を探しましたところ、以下の資料に記述がありました。『十津川人物史』(勝山毅著/出版:十津川村教育委員会)
しかし、記述についてはすでにご覧になっている「十津川かけはしネットの十津川人物史」と
同じ内容にとなっております。『文武館百年史』(文武館百年史編集委員会編)「第三章私立中学校文武館」には、設立者や館主、
村長として文書等に名前が記載されております。また「国立国会図書館デジタルコレクション」にて
公開されております、『徳育と智力』(戸水寛人
著)(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/809047)
p187(99コマ)にも村長として玉置明亮氏の名前が出てきておりました。
しかし、氏自身について詳しくは書かれている資料ではありません。
家系図に一人追加できたので良かったです。
宮城漫遊記2020
2020/9/19~9/20の1泊2日で宮城の先祖が住んだ地を巡ってきました。
9/19は朝4時半頃にマイカーで自宅を出発。
途中PA/SAで多めに休憩しながら北上し、10時頃に最初の目的地に到着
我が平間家が北海道へ移住する前に住んでいた宮城県柴田郡沼田村があった地です。


一面田んぼだらけで、のどかな場所です。
さっそく先祖の菩提寺と思われる「曹洞宗 自得寺」でお墓を探しました。

ここにあると思われるお墓は「平間家」と「村上家」。
ちょうど彼岸入りで墓参りの人が多かったので、なかなか調べにくく、
一旦離れて再訪問してみたりしながら探しました。
平間家については3基ありましたが、我が家に繋がるお墓は見つけられませんでした。
1基の平間家のお墓は、以前にお手紙を書いて連絡いただいた家のお墓で、家紋は聞いていた通り「丸に抱き茗荷」。
もう1基気になった平間家のお墓があり、こちらも法名碑に知っている名前は無かったのですが、家紋が「上り藤」。
北海道の祖父のお墓の家紋が「上り藤に違い鷹の羽」なので、もしかしたらこの家から分家した際に「違い鷹の羽」を加えたという可能性もあるのか?!
曾祖母・平間たつのの実家・村上家の方も直接我が家に繋がるお墓は見つけられず。
ただ、5世の祖父(父父母父父)・村上安兵衛の弟である村上庄五郎のお墓がありました。
家紋は「丸に橘」。
法名碑の庄五郎の名前のところに「八代目」と書かれていました。
ということは七代目までも分かっているのでは?
子孫と思われる方を探して手紙を書いてみようかと思います。
一旦離れている間に行ったのが「村田町歴史みらい館」。

どういう繋がりがあるのか分からなかったですが「楠木正成」の絵馬がありました。
柴田郡支倉村中と書かれているので、正成が立ち寄ったのでしょうか。


面白かったのがこれ。

カマド神というのは他の地方にもあるようですが、お面を飾るのはこのあたりだけの風習のようですね。
この歴史みらい館から歩いて行った「蔵のある町並み」。

次に向かったのは宮村臼久保屋敷があった場所。
ここは私の高祖母(父父父母)の実家の平間家が住んでいたと思われる場所。
ブログにコメント頂ける方から情報もらうことが出来たので、今回訪れる事ができました。

手前の石碑が気になりますね。もっと写真撮っておけばよかったと後悔してます。。
次に向かったのは同じく宮村の小妻坂、今の遠刈田温泉小妻坂。
ここは高祖母(父父母母)・なつの実家・我妻家が住んでいたと思われる場所。

その後、再び沼田の地に戻りました。
平間家の家があったであろう場所を探してみました。
おそらくこのあたりに家があったと思われます。

旧土地台帳から、明治47年にこの土地を手放しているのが分かります。
北海道へ移住したのが明治41年なので、5年ほど経ってもう北海道でやっていける!と思ってから手放したということでしょうか。
すっかり畑になっていて、家があった面影は一切残っていませんでした。
初日はここで終了。宿へ向かいます。
宿は遠刈田温泉ではなく、鎌先温泉の「すずきや旅館」

家紋は「隅切り角に抱き茗荷」ですね。
夕食なしのプランしか予約出来なかったのですが、近くにお店あるだろうと考えていました。それが甘かった。。
向かいにカフェ的なお店はありますが、夕食を食べられるようなお店はなし。
夕食は旅館のロビーで売っていたカップ麺を食べました。
朝食は部屋食でした。THE旅館の朝食という感じで良かったです。

二日目。
5世の祖母(父父母父母)せきの実家・小野家が住んでいた大谷村があったと思われる場所。

すっかり住宅街です。
ちかくにお寺があったのでちょろっとお墓を探してみましたが、
お墓参りの方が多くてちゃんと探せず、小野家のお墓は発見できませんでした。
タイミング悪かったですね。
次は曾祖父(父父父)の養子元・渡邊家が住んでいた船岡村。
渡邊家が住んでいたのがこの辺り。

この中に子孫の方と思われる方のお家があるのですが、もう住んでない感じでした。
前に手紙を書いてお返事頂けてないのですが、はたして読んで頂けているのかどうか。。
すぐそばに「恵林禅寺」がありました。

ノーマークでしたが、ここが渡邊家の菩提寺ではないかと思いお墓を探してみたところ、高祖父(父父父父)・渡邊留吉と妻・けさよのお墓を発見!

戒名が判明しました。

この旅で初めてのご先祖のお墓です。ご先祖様はじめまして!
留吉の父・久蔵や祖父・儀七の名前はこのお墓にはありませんでした。
このように纏められた場所にあるのでしょうか。

このお寺は住職さんがいらっしゃるので、手紙を書いて久蔵たちのお墓があるか聞いてみたいです。曹洞宗なので過去帳の内容は教えてもらえないかもしれません。
終わりよければ全て良し、ということで最後にご先祖のお墓を見つけることが出来たので、嬉しい気持ちで帰ります。
帰り道に通る福島には妻のご先祖が住んでいた土地があるので、寄り道していきました。
まずは、西白河郡高木村があったと思われる場所。
ここは妻の高祖母(母父父母)タマの実家・角田家が住んでいた場所。
すごい山の中でした。

もう一箇所、東白河郡小爪村があった場所です。
ここは妻の高祖父(妻母父父父)・武藤嘉茂之助が北海道へ移住する前に住んでいた場所。

集落に入っていくのが怖くて遠くから見るだけにしましたが、
改めて写真を見てみると、奥の方にお墓のような場所が見えます。

勇気出して行ってみればよかった~。次回の目的が出来たとボジティブに考えましょう。。
あと、なんとなく撮った石碑も改めて見てみると結構重要なことが書いてありました。

簡単に言うと、河川を改良して区画整理した際に字区域が変わりましたよ、ということですかね。
森ノ前というのが武藤家が住んできた場所。現在どの場所なのかは今後の課題です。
これにて宮城漫遊記2020はおしまい。
今回はフットワークよく行動したかったので、妻と子供には留守番してもらいました。
次宮城に行くときは一緒にゆっくりと観光したいですね。
ご先祖の住んだ土地巡りもまた行きたいですね。
【村上家】宮城県柴田郡沼田村→北海道空知郡音江村→網走郡網走町大字藻琴村→川上郡熊牛村大字熊牛村→斜里郡小清水村
私の曾祖母・平間たつのの実家・村上家です。
たつのは私の父の父の母です。
戸籍上で最も古い村上姓の名前は、たつのの高祖父・村上養助です。
私から見ると7世の祖父です。
取得できた最も古い戸籍は5世の祖父・安兵衛の兄・庄五郎が戸主のもの。
その中に高祖父・幸之助が入っていました。
この戸籍には安兵衛の叔父・運治郎が居て、その父として養助の名が分かりました。
6世の祖父・村上直助はこの庄五郎の父として名前だけ判明。
5世の祖父・村上安兵衛は高祖父・幸之助の父として名前だけ判明。
高祖父・幸之助は安兵衛の長男として万延元(1860)年に宮城県柴田郡沼田村で生まれました。
我が平間家と同じ村です。平間家は沼田村の18番地、村上家は62番地でした。
幸之助は同じ村で顔馴染みであったであろう、平間よしのと結婚します。
明治20(1887)年、幸之助は27歳、よしのは18歳でした。
村田町史にこの村上家に関係あるかもしれない記述がありました。
沼田村には、伊達氏が、仙台入府の前から村上氏一族が住んでいて勢力を張っていた。伊達氏の代となると、村上家に二十七石、七人扶持が与えられた。そして、どの代かは分からないが、この待遇に不満で、武士をやめ江戸に出て石になったという。
注:この記は、沼田で、村上氏の一族である村上金栄氏によった。
この村上一族に関係あるのか、今後の調査課題ですね。
5年後、明治25(1892)年に私の曾祖母である村上たつのが生まれます。
明治43(1910)年、18歳になったたつのは母・よしのの弟である平間源左衛門の養子となり、北海道上川郡上名寄村へ。
明治21(1888)年に分家していた幸之助は、大正5(1916)年に北海道空知郡音江村に入植しました。入植した経緯はわかりません。
平間家が入植した上名寄の次に移住した雨竜郡一已村の近くなので、平間家を頼って北海道へ渡ったのかもしれません。
「音江村開村50年史」という本があるのですが、「日本の古本屋」で9800円と少しお高いので、ポチッと出来ません。
地元の図書館で取り寄せてもらおうかと思います。
翌年の大正6(1917)年、幸之助一家は網走郡網走町藻琴村に移住しました。
東藻琴村史によると
大正5年
未だ鉄道の便なきため、移住上、困難を感じたが、地味天候二つながら良好、土地広漠、山林良材に富む。大地積の出願、農牧業を企図するもの多く、これに因をなし、小農移民が増加した。このときの網走町の戸数は3084戸、人口は1万6962人を数えた。
より良い土地を求めて移住したのでしょうか。
その後、大正14(1925)年に川上郡熊牛村大字熊牛村字ヌマオロ原野に移住しました。移住の経緯は不明。
昭和9(1934)年、この地で幸之助が死亡し、二男・幸治郎が家督相続。
幸之助は75歳でした。
2年後の昭和11(1936)年、幸治郎一家は斜里郡小清水村大字士別村に移住。
この経緯も不明。
私の高祖母・よしのがこの戸籍に居たため取得できました。
よしのは昭和12(1937)年、戸籍は小清水町のままでしたが宮城県柴田郡船岡村で死亡しました。69歳でした。
<村上家直系譜>
村上養助→村上直助→村上安兵衛→村上幸之助→村上(平間)たつの
