戸籍住民担当様ありがとうございます。
妻の家系を調べるため釧路市役所に戸籍を請求しました。
まずは妻の父の家系・庄司家から調べようと申請書を送ったのですが、
「他の姓はどうしますか?」と電話で確認が来たので「お願いします」と言ったところ、
妻の父の母の家系・増井家、妻の母の家系・武藤家、妻の母の母の家系・齊藤家の合計4家系分をすべて送って頂いた。
皆さん釧路だったのもラッキーでしたね。
次の請求するべき役所(秋田県由利本荘市、福島県棚倉市、豊浦町、山形県酒田市)も調べて頂いたし、請求書も同封して頂いたし、至れり尽くせりです。
かなりやり手の担当様だったようです。
定額小為替を多めに入れておいて良かった。
一気にやることが増えて嬉しい悲鳴。ひぇー。
ご先祖様達はどうやって北海道に来たのか?
それぞれ江戸時代に住んでいた地から入植した地に線を引いてみたが、これでは飛行機で来たようである。
調べてみると、北海道への移動手段として「北前船」というものがあったようだ。
平間家は東回り航路にて宮城県から青森、函館を経由して小樽で上陸し陸路で名寄まで。
吉田家は徳島県から西回り航路にて小樽で上陸し、陸路で旭川まで。
玉置家は奈良県から西回り航路で釧路で上陸し陸路で弟子屈まで。
という感じかなと妄想してます。
北海道までいったい何日かかったんでしょうか。。
航路に沿って線を引いてみるとこんな感じになりました。
最近、小4の息子と一緒に都道府県を覚える競争をしているので日本地図を見るのが楽しい。
【平間家】宮城県の旧土地台帳
コメントでtさんから情報いただいたので、宮城県の平間源三郎と渡辺留吉の旧土地台帳を仙台法務局大河原支局に請求しました。
①平間源三郎
沼田村の地引帳(明治八年)に字地の内に平間源三郎という名があったと情報いただきました。
一番新しそうなのが宮城県柴田郡沼辺村大字沼田十八番地。以前はこれで請求しましたが小字が分からないからとのことでダメでした。
なので、今回は宮城県柴田郡沼辺村大字沼田字地の内十八番地として請求してみました。
結果としては、
その地番の旧土地台帳はあるが、平間という名前は無いとのこと。。
名前がないとのことで、コピーはもらいませんでしたが、もらっておけばよかった。。
地引帳に番地の記載は無かったとのことでしたので、番地がちがうのか、小作人であったのか。。
ゼンリンの地図で字地の内に平間姓の方が住んでらっしゃることが分かったので、その地番でも請求しました。その結果がこちら。
そこには平間平太郎と平間今朝蔵?今朝松?という名がありましたが、
残念ながら戸籍で辿れたご先祖の中には無い名前でした。ご親戚なんでしょうか。。
②渡辺留吉
こちらもtさんから情報頂いて、もう一度戸籍をじっくり見てみたところ、小字まで書いてある箇所を発見。宮崎県柴田郡柴田町大字船岡字新町三十六番地でした。
その結果がこちら。
渡辺留吉の名前があります!昭和十三?年に所有権移転している渡辺徳蔵は留吉の長男で、私の高祖父・吉五郎のお兄さんです。留吉の前の所有者は平井源次郎という方で、留吉の父・渡辺儀七ではありませんでした。
数年で堀籠、嶋貫、飯渕、平井と所有者が変わっていくのは何故なんでしょうね。
私の家系の戸籍はだいたい揃ってきたので、次は妻の家系に手を出していこうかなと思っていましたが、旧土地台帳を色々取り寄せてみるのも面白そうですね。タダですし。
【吉田家】徳島県板野郡松島村→北海道上川郡神楽村(旭川市)→多寄村(名寄市)→川上郡熊牛村(標茶町)
父の母の家系【吉田家】の北海道での歴史は、高祖父・吉田幸平(1877~1946)が徳島県板野郡松島村から北海道上川郡神楽村(現旭川市)に入植したことに始まります。
妻・タケと四男三女と共にやってきました。
戸籍上で最も古い名は、幸平の義父・吉田安蔵の父・吉田傅蔵です。幸平は安原家からの養子でした。妻・タケの父が吉田安蔵です。
徳島県から北海道上川郡神楽村字忠別御料地に入植したのが明治38(1905)年。
下記資料によると、明治38年の徳島県板野郡から北海道への入植者は403人とのこと。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjhg1948/38/5/38_5_387/_pdf
その後、多寄村字風連別御料地に移住したのが明治43(1910)年。
1920年に「神楽村御料地争議」というのがあったらしいですが、
年代的に関係なさそうですね。
その後、川上郡熊牛村に移住したのが大正7(1918)年。
この頃には孫8人(祖母・妙子を含む)を加えて戸籍上は21人です。
ただ、標茶町史考(後編)によると、大正6年の入植者4人の中に吉田幸平の名があります。明治時代の山梨県などからの団体入植者は熊牛村の地味の劣悪さと悪天候による凶作により定着しなかったそうですが、大正時代の入植者は道内開拓地より転入した者が多かったそうで、開拓の経験があったため自立精神に富み、定着率が高かったそうです。
同じく標茶町史考に曾祖父・吉田東一の言葉が書かれていました。磯分内市街の防風林北方に入植した東一は「楊や榛の切り株がいくつも残っており、その間に畦らしい跡もあったが、小灌木や雑草に覆われていて他と見境がつかなかった」と入植当時の状況を語ったそうです。
そして、もう一つ、標茶町最初のサイロを建設したとして、昭和16年の写真が標茶町史考に載っていました。誰が東一なのかは不明ですが、この時祖母・妙子は12才なので、制服をきた女の子がだぶんそうです。なんとなく面影あります。
その後、妙子は祖父・平間太四郎と結婚しました。
<吉田家直系譜>
吉田傅蔵→吉田安蔵→吉田(安原)幸平→吉田東一→平間妙子→父→私
同窓会
で1泊2日の北海道帰省。
寒いですね。駅前の古本屋で郷土史探して、じいちゃんの墓参りするのが今回の裏ミッション。
2019/12/11追記
飛行機が間に合わず参加できなかったのですが、
小学校開校100周年記念式典が開催されており、そのついでに行われた同窓会でした。
小学校のホームページで式典の様子のチラシが公開されてました。
http://town.shibecha.ed.jp/isobunnai-e/htdocs/?action=common_download_main&upload_id=79
実は女優の高橋惠子が卒業生で、来てくれたそうです。
会いたかったなぁ。友達は一緒に写真撮ってもらったそうです。
私が通っていたころも子供は少なかったですが、今は全校生徒で30人程度。
中学校はすでに廃校となってます。。
どんどん廃れていきますね。
【平間家】宮城県柴田郡沼田村→上名寄村→一已村→標茶町
北海道での平間家の歴史は高祖父の父・平間源吉(1843~1934)が一家で宮城県柴田郡沼田村から上川郡上名寄村字名寄太に入植したことに始まります。妻・せき、養子1人と次男・源左ェ門夫婦、孫・たつの夫婦と曾孫の計8人でやってきました。
宮城での暮らしぶりはわかりませんが、このあたりは養蚕が盛んだったようです。
戸籍上で最も古い名は源吉の父・平間源三郎です。旧土地台帳は小字が分からないので、取り寄せられませんでした。いつか宮城に足を運んで旧土地台帳を探したいと思っています。取り寄せられました。
旧土地台帳には平間源三郎の名前はなく、源吉と長男の政治の名前だけでした。
源三郎がいつから沼田村に住んでいたのか、戸籍からは読み取れません。
源吉が明治8年に相続したので、その頃源三郎が亡くなったと思われます。
沼田村の戸籍にある名は、
戸主・源吉、妻・せき(小野勝蔵長女)、長男・政治、長女・よしの、二女・ふさ、二男・源左エ門、養子・栄吉(渡辺栄治長男)、政治の妻・くら(佐藤惣四郎三女)、源左エ門の妻・なつ(我妻甚右エ門二女)、叔父・源蔵(佐藤金治郎と養子離縁)です。
二男・源左エ門(1881~1940)が私の高祖父です。
長女・よしの(1869~?)は村上幸之助と結婚します。二人の二女・たつの(1892~1980)は高祖父・源左エ門の養子になります。源左エ門・なつ夫婦には子供ができなかったようです。たつのが私の曾祖母となります。
上名寄に入植したのが明治41(1908)年。明治24年に道庁による集団移住推奨が始まり、明治40~44年の北海道への移住者は富山についで宮城は2位の割合で多かったようです。
明治・大正期に砺波地方から北海道へ移住した人々の足跡を辿る – 富山県博物館協会
その3年後明治44(1911)年に雨竜郡一已村に移住します。一已村に移住した理由は分かりません。
一已村に移住した後、たつのは一緒に宮城から来た夫・周太郎と協議離婚し、宮城県柴田郡船岡村の渡辺留吉の四男・吉五郎を婿養子として迎えます。この平間吉五郎が私の曽祖父となります。
そして昭和19(1944)年、一已村の戸籍から吉五郎が妻・たつのと祖父兄弟4男1女を連れて分家し、標茶町字沼幌に新しく戸籍を設けます。
その後祖父・太四郎は戦争から帰ってきた後、標茶町磯分内に移住しました。
<平間家直系譜>
平間源三郎→平間源吉→平間源左ェ門→養女たつの婿養子・渡辺吉五郎→平間太四郎→父→私
たつのも養女でしたが、源左ェ門の妹・よしの夫婦の二女なので、血筋はちゃんと平間家です。
【平間家】祖父の兵籍簿が届いた
北海道保健福祉部福祉局から届きました。請求してから約2週間でした。
氏名 | 平間太四郎 | |||||||
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履歴 | ||||||||
年月日 | 進級任官 | 記事 | ||||||
昭和18 | 4 | 1 | 二等兵 | 現役兵として歩兵第125連隊第7中隊に入営 | ||||
7 | 1 | 第12中隊に編入 | ||||||
7 | 9 | 樺太駐屯のため札幌出発 | ||||||
7 | 11 | 上敷香着 | ||||||
7 | 13 | 上敷香出発 | ||||||
同 | 日 | 初間着 | ||||||
9 | 1 | 初間出発 | ||||||
同 | 日 | 気屯着 | ||||||
10 | 20 | 昭和18年度喇叭(ラッパ)手修業者を命ず | ||||||
12 | 1 | 一等兵 | ||||||
昭和19 | 2 | 24 | 喇叭手を命ず | |||||
3 | 20 | 担架術修業者を命ず | ||||||
5 | 18 | 補助担架兵を命ず | ||||||
昭和20 | 2 | 18 | 歩兵第306連隊要員として第30警備司令部に転属 | |||||
3 | 15 | 気屯出発 | ||||||
3 | 16 | 豊原着 | ||||||
3 | 26 | 歩兵第306連隊第11中隊編入 | ||||||
6 | 1 | 上等兵 | ||||||
8 | 9 | 日「ソ」開戦 | ||||||
8 | 23 | 内路に於いて武装解除 | ||||||
8 | 26 | 内路により行軍上敷香に至り作業大隊に編入 | ||||||
昭和23 | 9 | 22 | 敷香収容所出発 | |||||
9 | 24 | 真岡着 | ||||||
9 | 29 | 真岡出港 | ||||||
9 | 30 | 函館入港 | ||||||
10 | 6 | 函館上陸、復員(徳寿丸) | ||||||
以上 | 余白 |
昭和20年8月~昭和23年9月の空白の3年間はシベリア抑留の期間ですね。
ラッパを吹いていたというのは聞いていて、祖父の家にはそのラッパもありました。下の写真は数年前に帰省した際に撮ったもの。