川崎大師平間寺

厄除けで有名な川崎大師に初詣に行ってきました。川崎大師は通称で、正式には「平間寺」なのです。

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パンフレットから抜粋しますと、

平安時代、第75代崇徳天皇の御代(1123〜1141)、平間兼豊・兼乗という武士の親子が無実の罪で生国尾張(今の名古屋地域)を追われ、川崎の地に流れ着き、漁師をしていたそうです。

ある夜夢枕に立った高僧のお告げに従い海に網を投じ、大師の像を引き揚げました。

 

兼乗がこの像を浄め供養していたところ、高野山の尊賢上人が立ち寄り、この像にまつわる話に感泣しました。そして兼乗と力を合わせて、大治3年(1128)に平間寺を建立しました。

 

兼乗はこの信仰のおかげで尾張の国に帰任したそうです。

 

もしかして我が家系と関係あるかも、、と淡い期待を持ちつつ毎年参拝しています。

 

【武藤家】福島県東白川郡小爪村→北海道白糠郡音別村

妻の母方の家系・武藤家です。

北海道での武藤家の歴史は、大正4年に妻の曾祖父・武藤市郎が梅田モトメと結婚と同時に、福島県東白川郡小爪村から北海道白糠郡音別村に分家したことから始まります。

モトメも福島県のひとです。

 

分家していますが、市郎の兄の武藤藤之助が同じく音別村で大正4年に亡くなっているし、高祖父・武藤嘉茂之助も20年後ですが同じく音別村で亡くなっているので、皆で一緒に北海道にやってきたのかもしれません。

 

戸籍上で最も古い名は、高祖父の父の父の父・武藤清右衛門です。

福島県東白川郡の高祖父・武藤嘉茂之助が戸主の戸籍上で、養祖父・武藤清右衛門(高祖父の祖父)の父の欄に「亡曾祖父 清右衛門」と記載されています。高祖父の父の父は襲名したんですね。ややこしいですね。

 

曾祖父・市郎は音別村(現・釧路市音別町)で4男5女を育てます。次男の昭明が妻の祖父ですが、私が妻と出会う前に亡くなっています。

 

北海道にやってきた理由はこれから調べていきますが、

明治42年に音別で鉱区を発見、大正7年に尺別炭鉱が開坑しますので、庄司家と同じように炭鉱での仕事を求めて移住してきたのかもしれませんね。

knaruse.blog94.fc2.com

 

<武藤家直系譜>

武藤清右衛門→武藤清右衛門→武藤粂三郎→武藤嘉茂之助→武藤市郎→武藤昭明→義母→妻

仕事始め

始まりましたね。

今年も忙しくなりそうです。

 

うちの会社には全国津々浦々からの出身者がいるので、お土産も色々です。

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北海道の「ピンクなブラックサンダー

宮城県の「ゆべし生さぶれくるみ入り」

岩手県の「サクッとかもめの玉子

長野県の「栗ぱい」

山口県の「夏みかんフィナンシェ」

福岡県の「めんべい」

 

私は今回帰省していないのでお土産買ってませんが、いつも悩みます。結局、定番の白い恋人かロイズのチョコになりますね。ちょっと前は「じゃがポックル」が流行ってましたが、今の流行は何なんでしょうね。

 

家系図の方は、妻の家系を調査しているところですが、婿入りした弟の家系の調査もお願いされたので、そちらも進めていきます。

【庄司家】秋田県由利郡下川大内村→北海道釧路市桜ヶ丘→釧路市音別町

妻の家系の庄司家。

北海道での庄司家の歴史は、妻の祖父・庄司六郎が昭和28年に婚姻と同時に秋田県由利郡下川大内村から北海道釧路市桜ヶ丘に新戸籍を設けることで始まります。

六郎が22歳のときです。入植では無いでしょうね。

秋田に仕事がなかったため、今は無き「太平洋炭鉱」で働くために釧路に来たそうです。

ja.wikipedia.org

 

戸籍上で最も古い名は妻の高祖父の祖父・源左衛門です。

その長男も源左衛門(1835~1897)を襲名しています。

戸籍は秋田県由利郡葛岡村。葛岡村→下川大内村→大内村→現・由利本荘市となります。

大内町史から、2代目源左衛門が生まれた頃の天保9(1838)年の葛岡村は、巡見使関係資料によると家数71軒、人数345人、馬数89匹だったそう。稲作もしくは林業を営んでいたんでしょう。要調査です。

 

<庄司家直系譜>

庄司源左衛門→庄司源左衛門→庄司次三郎→庄司源次郎→庄司六郎→義父→妻

【小川家】小川新十郎の話

母方の祖母の家系・小川家についてです。

戸籍で最も遡れたのが、高祖父・小川又次郎の父・小川又兵衛の父である小川新十郎でした。

 

そこで「小川新十郎」で検索してみたら、以下のページがヒットしました。

nehori.com

なんと「芸藩通志」に小川家についての記載があるとのことでした。

芸藩通志とは1825年(文政8年)に完成した安芸国広島藩の地誌です。

これによると、

 

小川家:切田村、先祖は小川民部成国、天文の初め、北村に住す

 

切田村

芸藩通志」に「もと霧多村と書しといえど、仮字なるべし。慶長中よりの文書皆切田村と見ゆ」とある。

芸藩通志」によれば、戸数54、人口248、牛20。

村役人一覧

庄屋 小川新十郎(枇杷垣内) 安永9年、文化12年(1829年)
袴御免 小川組平太(枇杷垣内)天保12年袴着用
引受 小川新十郎(枇杷垣内)
庄屋 小川組平太(枇杷垣内)天保2年
割庄屋格 小川組平太(枇杷垣内)文久2年
庄屋 小川禎蔵(枇杷垣内) 安政4年
社倉十人組頭取 藤蔵 文化12年(1829年)

 

この「枇杷垣内」というのは屋号だそうです。

最近お知り合いになれた、広島県の小川家の方から教えていただきました。

叔母から家系について調べている親族がいると聞いたので、思い切ってお手紙を出してみた所、幸運にも繋がることができました。

その方のお父様(祖母のいとこ)が詳しく調べておられたものを、「小川家の先祖」という数十ページもの冊子にまとめられており、そちらを送って頂きました。

 

この切田という土地には小川姓がたくさん住んでいるため、屋号で呼び合っていたそうで、高祖父・小川又次郎の父・又兵衛は分家してから「今垣内(イマガーチ)」と名乗っていたそうです。

 

以下も教えていただいた公文書の内容です。

文政五年二月賀茂郡国郡誌御用旧家書抜辻寄帳によれば
橘姓に而天文之頃小川民部成國霧田村に来住

新十郎迄拾代弐百八拾年余子孫相続由緒所持仕候寛永の頃より代々御役相勤申候

 

芸藩通志「故家」の項によれば
切田村小川氏
先祖小川民部成國天文の初め此の村に住す 第四世の孫清左衛門より世々里職に勤む

 

芸藩通志「村里」の項によれば
切田村
もとは霧多村と書しといへど假字なるべし慶長中よりの文書皆切田村と見ゆ

廣五町餘り袤十五町此の地北は高山東西は平田なり南に黒瀬川あり飛郷一所兼沢村にあり
十七町一段四畝二十四歩  百五十五石
五十四戸  二百四十八人
牛 二十隻

 

賀茂郡役付諸家名録
切田村 枇杷垣内 小川氏
新十郎
割庄屋格
文化十二年より天保元年まで 切田村庄屋
三升原市立御用懸り
野路引受役
安政六年二月六日歿 嗣子祖平太

 

本家の小川家は戦国時代から江戸時代、明治の初めまで代々切田村の庄屋をつとめていました。

小川家に代々伝わる家系図によると新十郎が小川家10代目、その先12代前まで遡れています。また、先祖・小川民部成國は太平記にも出てくるある武将に繋がるという言い伝えが残っているそうです。ただ、そのへんは確かなことが言えないためブログでは差し控えます。

 

ロマンですね。ロマン溢れます。

私から数えると18代前までご先祖の名前が分かったことになります。

平間家もそこまでとは言いませんが、もう少し遡れたらいいなと思い、

この年末を狙って、同姓の方数名にお手紙を出しました。

お正月の話題に上がって、返信もらえる可能性が増えるかもと思ったからです。

そろそろ届いていると思いますが、まだお電話などは頂けていませんね。。

愛川百年旅

私の住む町がこんな動画を公開していました。

故郷ではないので懐かしさはないですが、昔の暮らしが分かり面白いです。

全部見ても30分かかりません。

www.youtube.com

(私が務める会社もちょびっと出てきます。)

【平間家】祖父・平間太四郎の話

主に父から聞いた話。

 

祖父・平間太四郎は北海道網走郡網走町で生まれた。

高祖父・源左ェ門の孫として北海道雨龍郡一已(いちやん)村の戸籍に入り、

1941年(19歳)のときに、曾祖父・吉五郎が分家し北海道川上郡標茶村沼幌に戸籍を移した事になっている。

 

しかし、父の話では、

太四郎は幼少から沼幌で暮らしており、小学校1~2年の頃に中久著呂の鍛冶屋に丁稚奉公に出された。

そこで3年ほど、クワやカマなど作っていたが、給金が少ないという理由で吉五郎によって、沼幌に戻された。

その際、自分で作ったクワなどをリヤカー1台分持ち帰ったそう。

 

その後すぐに、今度は弟子屈の鍛冶屋に奉公に出された。小学校高学年の頃である(1932~1934年頃?)。

ここも3年余りで、給金が良くない・面白くないとの理由で沼幌に戻ってきた。

 

その後、姉タマノ(曾祖母・たつのと前夫・及川周太郎の長女)の夫、高橋富義が雨竜郡一已(現在の深川市)で板金屋や鍛冶屋、水道屋のような仕事をしていたので、タマノのもとに世話になった。

そこで、富義と共にシマリナイ(朱鞠内)湖のダム工事などに従事した。

シマリナイ湖は日本最大の人造湖。雨竜第一ダムの完成により生じた。ダムの完成は1943(昭和18)年。

詳細はウィキペディアに詳しく書いてあるが、厳しい労働環境で命を落としたものを少なくなかったそう。

囚人や朝鮮人がタコ部屋労働をさせられていた。タコ部屋では丸太を枕にして寝ており、太四郎はそこの現場監督のようなことをやっており、枕の丸太をハンマーで叩いて労働者を起こしていたそう。

その後、召集令状が届いたことで再び沼幌に戻ってきた。

沼幌から旭川の歩兵連帯へ出征し、そこから樺太の前線警備に行った。

1945(昭和20)年、戦争は終わったが樺太で捕虜となり収容所へ入れられた。

そこで、ネズミやカエル、ヘビなどを食べていたそう。ネズミが一番美味かったらしい。。

樺太にはロシア人が多くいて、そのロシア人相手に「鋳掛け屋」(鍋などの鋳物製品の修理を行う仕事)をやって、重宝されていたそう。(関係無いが、落語に鋳掛け屋の話があるそう)

その後、シベリアに抑留され土地の開拓など強制労働させられたが、鋳掛け屋の能力が認められ、また樺太に戻された。

その後、引揚船で函館に帰ってきた。その際90円をもらった。

大金持ちだと喜んだが、羊羹1本買ったら40円でほとんど残らなかった。

残ったお金を持ってなんとか沼幌に戻ってきたが、弟の孝吉が結婚し家を継いでいたため、行く場所がなかった。

ちょうどその頃、標茶町磯分内でニッテンの工場を建設しており、土建屋・請負師から仕事を紹介してもらい、磯分内で鍛冶屋の仕事を始めた。

そして、若森さんという人の紹介で、吉田妙子と結婚し、本籍を磯分内(標茶町字熊牛原野)に移す。

 

なかなか波乱万丈な人生を送った祖父は2008年に亡くなりました。

曾孫を見せられなかったのが残念。

【小川家】広島県賀茂郡中黒瀬村→(北海道厚岸郡太田村)→北海道厚岸郡厚岸町→広島県呉市→北海道根室郡根室町

母方の祖母の家系・小川家。

北海道での小川家の歴史は、高祖父・小川又次郎の弟・小川兼吉が明治38年厚岸郡大田村字片魚去番外地に分家することから始まります。

明治42年に厚岸の小川兼吉・ツルト夫婦と曽祖父・小川秀夫が養子縁組を結びます。

 

しかし、大正7年に曽祖父・小川秀夫は協議離縁し広島の又次郎の戸籍に復籍。

ただ、同じ大正7年に曽祖父・小川秀夫は大竹ミツヨと結婚し厚岸町長に届けているので、実際には広島には戻っていないと思われます。

そして、大正9年厚岸郡厚岸町大字若竹町64番地に入籍。

 

厚岸町は、東北海道では最も早く開けたところだそうです。

www.akkeshi-town.jp

 

でも入植がうまくいかなかったのか、曽祖父・小川秀夫は大正10年に広島県呉市大字和庄町に戻ります。7年後の昭和3年、祖母・トワ子が四女として誕生します。

 

そして再び、曽祖父・小川秀夫は昭和14年北海道根室郡根室町字大正町に入植(?)。

昭和14年だと入植というより、普通の引越しでしょうか??

11歳の祖母・トワ子含め二男四女と共にやってきます。

 

祖母・トワ子が私の家系では、唯一存命だった北海道への移住者だったのですが、

今年10月に91歳で永眠いたしました。晩年は痴呆も進んでいて、残念ながら話も聞けない状態でした。あと5年でも早く家系図作りを始めていれば、、と悔やんでも悔やみきれません。。

 

 

戸籍上、最も古い名前は高祖父・小川又次郎の父・小川又兵衛の父・小川新十郎です。

小川又兵衛は小川新十郎の三男で、広島県賀茂郡中黒瀬村切田13番屋敷に同村から分家しました。

 

この小川新十郎ですが、芸藩通志(安芸国広島藩の地誌)に名前があるようで、

誠意調査中です。そのうち記事に出来ればと思います。

 

<小川家直系譜>

小川新十郎→小川又兵衛→小川又次郎→小川秀夫→小川トワ子→母→私

 

【平間家】三度目の正直の旧土地台帳

またまたtさんより有力なと言うより、確かな情報頂いたので、

再々度、旧土地台帳を請求しました。

 

宮城県柴田郡沼辺村大字沼田字地ノ内145番地 

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コメント頂いたときは気が付きませんでしたが、

平間政治は源吉の息子なので、相続が逆転?してますね。これは、、

 

戸籍によると源吉は明治8年に平間源三郎から相続し戸主となってましたが、

明治15年に「逃亡」し、三ヶ年が経過したため、明治20年に息子の政治が相続します。

(計算合わないですが、戸籍には上記のように書いてる。)

旧土地台帳は明治20年頃からの記録なので、最初の所有者が政治となっています。

しかし、明治22年に政治が死亡します。

なので、源吉が再相続という形で明治24年に再び戸主となります。

明治22年から24年の間の空白の2年はなんなのでしょう?

24年に源吉が「逃亡」から帰ってきたということでしょうか。

「逃亡」というのは勝手に本籍地を離れ、他国でも課役を負担してない状態、とのこと。何をやっていたのか、謎ですね。

 

そして明治37年12月に「半沢藤助」という人に所有権が渡っています。

戸籍上では、源吉が北海道上川郡上名寄村に転籍したのが明治41年となってますが、

実際は、4年前の明治37年~38年には北海道にいたのかもしれません。

 

ちなみに半沢という姓は、平間家の戸籍上のどこにも出てこないので、

まったく関係ない人でしょう。

 

「逃亡」「戸籍」で調べてみると、高校・日本史のページが沢山出てきますが、

授業で習った覚えがまったく無いです。

20年弱も昔のことだからでしょうか。高専だから習わなかったんでしょうか。

もっと歴史の勉強しておけばよかった!と思うことが多々あります。

 

 

【玉置家】奈良県吉野郡十津川村大字玉垣内→北海道川上郡屈斜路村御料地→常呂郡留辺蘂町

北海道での玉置家の歴史は高祖父の父・玉置勘二郎(1850~1939)が奈良県吉野郡十津川村大字玉垣内から北海道川上郡屈斜路村御料地(現・弟子屈)に入植したことに始まります。

高祖父・玉置岩太郎、ヤスノ夫婦と孫3人と一緒でした。妻・こべんは奈良県で明治39(1906)年に亡くなっています。

 

戸籍上で最も古い名は勘二郎の祖父・玉置漁之助です。養叔母・ま?(読めない)の父として出てきます。勘二郎の父・玉置秀之助も養妹・ふゆの父として名が出てきます。

 

実は勘二郎は千葉松治の二男で、千葉家から玉置家へ養子として入りました。

この千葉松治は戸籍に「奈良県吉野郡永井村士族」と書かれていました。

おぉ、武士か!?と思いましたが、この吉野郡の郷士達は「幕末での京都御所の警備や戊辰戦争での功績が認められ士族となりました。」とのことなので、正真正銘の武士かは微妙です。もう少し調査が必要ですね。

www.vill.totsukawa.lg.jp

 

ちなみに、勘二郎の妻・こべんも玉置姓でこべんの父は玉置茂兵エです。

この2つの玉置家の関係は、戸籍からは分かりません。

こちらも調査が必要です。

 

屈斜路村に入植したのが大正3(1914)年です。

前にも書きましたが、時期的に十津川水害での移住とは関係なさそうです。

御料地を開拓し農業を始めたのでしょう。

 

その後、祖父・玉置冨雄の暮らしぶりについては、こちらの手記が詳しいです。

 

<玉置家直系譜>

玉置漁之助→玉置秀之助→玉置勘二郎→玉置岩太郎→玉置久雄→玉置冨雄→母→私