【小川家】広島と北海道を行ったり来たり

足取りが分かりにくかった母方祖母の家系・小川家

年表にしてみたので載せてみます。

 

小川家の足取りは、広島→北海道→広島→北海道という感じでした。一度戻った広島から再び北海道へ行くことになった理由は何だったのでしょうか。。気になります。

 

和暦 西暦 出来事 住んでいた場所
文化13 1816 6月17日、切田村・(便宜上初代)小川新十郎の三男・又兵衛誕生 又兵衛@広島
不明 又兵衛が郷原村・檜原元信の二女・リセと婚姻 又兵衛@広島
安政1 1854 10月25日、又兵衛(39)とリセ(31)の長男・又次郎誕生 又次郎@広島
元治1 1864 1月18日、又兵衛(49)とリセ(41)の二男・兼吉誕生 又次郎@広島
不明 又次郎が兼澤村・土井敬左衛門の長女・ロヨと婚姻 又次郎@広島
明治10 1877 9月19日、又次郎(23)とロヨ(21)の長男・唯吉誕生 又次郎@広島
明治15 1882 1月3日、又次郎(28)とロヨ(26)の長女・ミチヨ誕生 又次郎@広島
明治17 1884 7月1日、又次郎(30)とロヨ(28)の三男・秀夫誕生 秀夫@広島
明治18 1885 兼吉(22) 徴兵鎮台補充輺重輸卒 秀夫@広島
明治19 1886 兼吉(23) 第一豫備徴員編入 秀夫@広島
明治21 1888 3月28日、又次郎(34)とロヨ(32)の二女・マシ誕生 秀夫@広島
明治22 1889 9月20日、マシ(1)が夭折 秀夫@広島
明治22 1889 兼吉(26) 國民兵編入 秀夫@広島
明治23 1890 12月28日、又次郎(36)とロヨ(34)の四男・登誕生 秀夫@広島
明治24 1890 1月3日、登(0)が夭折 秀夫@広島
明治25 1891 11月12日、又次郎(38)とロヨ(36)の五男・一二三誕生 秀夫@広島
明治26 1891 1月12日、一二三(0)が夭折 秀夫@広島
明治28 1893 5月23日、又次郎(41)とロヨ(39)の六男・一三誕生 秀夫@広島
明治30 1897 6月3日、ミチヨ(15)が切田村・小川太一と婚姻 秀夫@広島
明治30 1897 唯吉(20)が徴兵 歩兵第二補充兵 秀夫@広島
明治34 1901 4月20日、又次郎(47)とロヨ(45)の三女・ミユリ誕生 秀夫@広島
明治36 1903 3月25日、又兵衛(87)が逝去 秀夫@広島
明治37 1903 9月9日、ミユリ(3)が夭折 秀夫@広島
明治38 1905 12月12日、兼吉(43)が北海道釧路国厚岸郡太田村字片無去番外地へ分家 秀夫@広島
明治41 1908 2月12日、リセ(84)が逝去 秀夫@広島
明治41 1908 4月16日、兼吉(46)が岩政周太郎の三女・ツルと婚姻 秀夫@広島
明治42 1909 8月19日、秀夫(25)が兼吉()の養子となり、太田村の戸籍に入る。 秀夫@広島→北海道
明治45 1912 2月10日、唯吉(35)が大星関太郎の長女・ハツヨ(21)と婚姻 秀夫@北海道
明治45 1912 2月10日、唯吉(35)とハツヨ(21)の長男・國人誕生 秀夫@北海道
大正3 1914 5月8日、唯吉(37)とハツヨ(23)の長女・トキミ誕生 秀夫@北海道
大正5 1916 4月7日、又次郎(62)が阿歴内の土地の貸付を申請する 秀夫@北海道
大正5 1916 4月26日、又次郎(62)が阿歴内の土地の貸付を許可される
川上郡塘路村字阿歴内原野南5線155番地
秀夫@北海道
大正5 1916 又次郎(62)が(おそらく唯吉も)北海道川上郡塘路村阿歴内に入植
「阿歴内原野」橋本勲 の大正五年の入植者に小川又次郎の記載あり
秀夫@北海道
大正5 1916 8月12日、唯吉(39)とハツヨ(25)の二女・チトセが
北海道川上郡塘路村阿歴内にて誕生
秀夫@北海道
大正6 1917 2月15日、又次郎(63)が北海道厚岸郡厚岸町真龍に於いて逝去 秀夫@北海道
大正6 1917 2月15日、又次郎死亡に因り唯吉(40)が家督相続 秀夫@北海道
大正7 1918 6月28日、秀夫(32)が兼吉(60)と協議離縁 秀夫@北海道
大正7 1918 12月5日、秀夫(32)が大竹勘兵衛の長女・ミツヨ(23)と婚姻 秀夫@北海道
大正7 1918 12月5日、秀夫(32)とミツヨ(23)の長男・茂雄が
北海道厚岸郡厚岸町大字梅香町にて誕生
秀夫@北海道
大正8 1919 2月28日、秀夫(33)が中黒瀬村大字切田 兄・唯吉戸籍より分家 秀夫@北海道
大正8 1919 4月6日、唯吉(42)とハツヨ(28)の二男・勇が
北海道川上郡塘路村阿歴内にて誕生
秀夫@北海道
大正9 1919 7月19日、秀夫(34)とミツヨ(25)の長女・セツが
北海道厚岸郡厚岸町大字若竹町64番地にて誕生
秀夫@北海道
大正9 1919 11月は15日、秀夫(34)家は北海道厚岸郡厚岸町大字若竹町から
広島県呉市今西通へ転籍
秀夫@北海道→広島
大正10 1920 5月10日、秀夫(35)家、広島県呉市今西通から広島県呉市大字和庄町へ転籍 秀夫@広島
大正10 1921 5月20日、チトセ(5)が呉市大字和庄鹿田通に於いて夭折 秀夫@広島
大正10 1921 5月21日、勇(2)が呉市大字和庄鹿田通に於いて夭折 秀夫@広島
大正11 1922 6月28日、一三(29)が大坪シメと結婚 秀夫@広島
大正12 1923 2月27日、兼吉(61)が北海道厚岸郡厚岸町大字真龍町に於いて逝去 秀夫@広島
大正12 1923 3月17日、秀夫(38)とミツヨ(29)の二女・清子が
広島県呉市大字和庄上古江にて誕生
秀夫@広島
大正13 1924 2月1日、名称変更に付 呉市古江町八番地に更正 秀夫@広島
大正14 1925 6月10日、秀夫(40)とミツヨ(31)の三女・芳子が
広島県呉市京町にて誕生
秀夫@広島
昭和3 1928 3月13日、秀夫(43)とミツヨ(34)の四女・トワ子が
広島県呉市古江町にて誕生
トワ子@広島
昭和3 1928 3月20日、秀夫(43)家は広島県呉市古江町から呉市西畑町に転籍 トワ子@広島
昭和5 1930 9月1日、一三(37)が賀茂郡中黒瀬村大字切田に分家 トワ子@広島
昭和6 1931 10月1日、ロヨ(75)が呉市下中町に於いて逝去 トワ子@広島
昭和6 1931 12月9日、唯吉(54)が呉市東畑町に転籍 トワ子@広島
昭和8 1933 4月20日、秀夫(48)とミツヨ(39)の二男・繁二が
広島県呉市西畑町にて誕生
トワ子@広島
昭和11 1936 7月14日、秀夫(51)とミツヨ(42)の三男・義美が
広島県呉市西畑町にて誕生
トワ子@広島
昭和14 1939 1月23日、秀夫(54)家は広島県呉市西畑町から
北海道根室郡根室町字大正町に転籍
トワ子@広島→北海道
昭和14 1939 5月27日、秀夫(54)が北海道根室郡根室町字大正町に於いて逝去
お墓は弟・一三が広島県賀茂郡中黒瀬村切田に建てた
トワ子@北海道
昭和28年 1953 5月20日、トワ子(25)が玉置富雄(26)と結婚 トワ子@北海道

 

年表にまとめる途中で、私の曾祖父である小川秀夫の兄・小川唯吉の子供が、本籍ではない地で生まれていることに気が付きました。大正5年、大正8年です。

 

本籍がある広島県ではなく、北海道川上郡塘路村阿歴内という場所です。

 

北海道へ最初に移住した小川家が本籍を置いたのは北海道厚岸郡であり、阿歴内ではありません。

 

気になったので阿歴内への入植について調べてみました。

まずは標茶町のホームページの歴史についてのページを見てみると、

https://town.shibecha.hokkaido.jp/gyousei/shibecha_gaiyou/rekishi/

大正4年 久著呂159戸、阿歴内11戸入地

 

阿歴内は明治40年 道庁が殖民区画を測定し告示した。しかし、この時の入植者応募はなかった。


大正4年 11戸の集団移民が入植したことがきっかけで、阿歴内の集落が形成されていった。

 

阿歴内に入殖した人々の生活を例にとると、最初につくった小屋は外側をバッタで囲み屋根は茅葺きで、中に大きな炉を設けて木の根を燃やして暖を取りました。
煙はすきまから出ていくのでそれほど苦になりませんでしたが、寒くてやりきれないときは炉の火を外へだしてその上に板を敷き、布団を上に敷いて寝ました。

あかりは焚火で間に合わせ、早めに床についたそうです。
夜はフクローがなき、近くには熊の足跡が無数にあり、心細い思いをしました。
狐などは昼間から目につき、カラスに弁当を風呂敷の中からとられたこともありました。
こうした苦労をしながら、広大な熊牛村の原野は次々と開墾されていったのです。
集団入殖をしたそれぞれの地域の開拓の特徴を紹介しましょう。
久著呂の青山奥左衛門の農場では、郷里の福井県からたくさんの小作人をつれてきて開拓にあたりました。
続いて徳島県から約80戸186名の大規模な移民団が入り、さらに久著呂川上流に宮城県からの団体が入地し開墾がすすみました。

 

この大正4年の11戸にいるのかと思い、もっと詳しい資料を探したところ、釧路の古本屋のホームページで「阿歴内原野」という短大の生涯学習センターのテキストを見つけたので購入しました。

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阿歴内原野

この中にご先祖の名前を発見しました!

曾祖父の兄・唯吉ではなく高祖父・小川又次郎の名前が、

大正5年の移住者の中にありました。

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五 阿歴内原野の移住者たち

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大正5年 小川又次郎

元資料である「北海道国有未開発地処分法完結文書」について調べてみると、北海道立文書館にあることが分かったので、リファレンスしたところ、下記のように回答頂きました。

お探しの小川又次郎さんの名前が確認できる資料について、
当館で保有する「北海道国有未開発地処分法完結文書」のうち、
下記の資料3冊にお名前があることが確認できました。

『処分法第三条特定地貸付台帳 川上郡塘路・阿歴内原野』(請求記号 A7-2 Bクシ63)
内容
・小川又次郎さんが土地の貸付を受けた年月日
 ~出願が大正5年4月7日、許可を得たのは大正5年4月26日
・貸付を受けた土地の番地
 ~川上郡塘路村字阿歴内原野南5線155番地
・貸付を受けた土地の最終的な処分
 ~大正10年に取消命令があり取り消し

『[処分]法[第]三[条]貸付許可書類 大正五年』(請求記号A7-2 Bクシ507)
内容
釧路支庁において土地の貸付を許可する決定書
広島県における戸籍謄本

『小地積異動関係書類 大正五年』(請求記号A7-2 Bクシ514)

ただし、大変申し訳ないのですが、当該資料は電子式複写(コピー)
不可の資料となっているため、写しを希望される場合は、北海道へ
いらっしゃるのは中々難しいかと存じますが、当館へ足を運んで
いただくか、どなたかに依頼して写真撮影を委託していただく
こととなります。

資料保存の観点からこのような取り扱いが定まっておりますので、
何卒ご了承ください。

 

リファレンスによって、土地の貸付に関する具体的な日付と土地の住所が分かりました。古い戸籍の写しもあるようです。

残念ながら電子コピー不可とのことでした。

地元の便利屋さんにお願いするか、いつか現地に足を運んで確認したと思っています。

 

大正5年に阿歴内の土地の貸付を許可されて移住し、

5年後の大正10年に貸付を取り消されていることがわかりました。

 

これは、「東藻琴村史」に書かれていたのですが、

国有未開地処分法による土地の貸付期間は、

貸付許可から10年以内で、5000坪未満は3年、15000坪未満は5年、30000坪以内は6年、60000坪以内は8年、100000坪以内は9年、それ以上は10年だったそうです。

この期間中に成功しなければ、返還を命じられたとのこと。

 

ということは、又次郎は15000坪未満の土地の貸付を受けたが、

開拓が成功しなかったので、返還させられたということでしょう。

 

もし開拓が失敗(開拓成功の基準は不明ですが。。)したことが、

唯吉と曾祖父・秀夫が広島に戻るきっかけになったとしたら、

再び北海道へ移住する際に根室郡に行くことはなく、

祖母・トワ子が祖父・玉置富雄と出会わなかったかもしれません。

そうすると、母は生まれておらず、私も生まれていなかったことになります。

 

ちょっとした気付きから、予想外の情報が続々出てきました。

こういうことがたまにあるので、先祖調べはやめられませんね。