玉置家と小川家の出会い
私の母方の祖父の家系・玉置家と祖母の家系・小川家の出会いについて、
千葉県に住む小川家の親族の方からのお手紙で判明しました。
母方の祖父・玉置冨雄は跡佐登(アトサノボリ)鉱業所に勤めていました。
(【玉置家】祖父の手記という記事で書いてます。)
お手紙によると、
玉置家とは弟子屈町川湯跡佐登にあった野村興産の硫黄採掘精錬所の社宅で隣同士でした。1963年に鉱山が閉山し、玉置家は留辺蘂町へ、小川家は根室市へと移りました。はるか50年以上前のことです。
なんと!家がお隣さんだったのが縁で結婚したのですね。
当時の鉱業所の写真も送ってくださいました。
奥にある白い山は硫黄でしょうか?
跡佐登鉱業所10年の歩みという本のコピーを九州大学から送ってもらったりしながら、鉱業所について調べているのですが、なかなか祖父の生活が分かるような資料は無く困っているところでした。貴重な写真だと思います。
跡佐登から標茶まで硫黄を運ぶ鉄道が走っていたり、釧路集治監があったり、
ここらへんの歴史も調べてみると面白そうです。
家系のインデックス(随時更新)
直系家系図です。(更新:2021/07/24)
見にくかったので分割しました。
家の名【本貫地(現在の地名)】<家紋>の順に記載です(現在18系統)。
<<私の家系>>
平間家【宮城県柴田郡沼田村(柴田郡村田町)】<上り藤に違い鷹の羽>
2019/10/09 【平間家】宮城県柴田郡沼田村→上名寄村→一已村→標茶町
2019/11/08 ご先祖様達はどうやって北海道に来たのか?
渡辺家【宮城県柴田郡船岡村(柴田郡柴田町)】<丸に三ツ星に一文字>
2020/05/16 【渡辺家】「ある百姓の覚え書き:渡辺家文書調査報告書」を調べてみたが、、
2020/08/23【村上家】宮城県柴田郡沼田村→北海道空知郡音江村→網走郡網走町大字藻琴村→川上郡熊牛村大字熊牛村→斜里郡小清水村
吉田家【徳島県板野郡泉谷村(板野郡上坂町)】<井桁に橘?>
2019/11/02 【吉田家】徳島県板野郡松島村→北海道上川郡神楽村(旭川市)→多寄村(名寄市)→川上郡熊牛村(標茶町)
2019/11/08 ご先祖様達はどうやって北海道に来たのか?
安原家【徳島県板野郡七條村(板野郡上坂町)】<不明>
20200325 【吉岡家】奈良県吉野郡宗檜村→北海道上川郡士別村
2019/09/20 【玉置家】奈良県吉野郡十津川村から弟子屈村へ
2019/11/08 ご先祖様達はどうやって北海道に来たのか?
2019/11/17 【玉置家】奈良県吉野郡十津川村大字玉垣内→北海道川上郡屈斜路村御料地→常呂郡留辺蘂町
2020/02/11 【玉置家】十津川郷士について岸本良信先生に相談してみた
2020/02/16 【玉置家】十津川郷士について奈良県立図書情報館に相談してみた
2020/03/08 【玉置家】十津川郷士について十津川村歴史民俗資料館に問い合わせてみた
2020/04/18 【冨宅家】また十津川村歴史民俗資料館に聞いてみた
2020/04/30 【上家】和歌山県那賀郡円明寺村→奈良県吉野郡十津川村→北海道川上郡弟子屈村
20212/08/13 【上家】「紀伊国名所図会」に見る円明寺村
小川家【広島県賀茂郡切田村(東広島市)】<おそらく「向こう橘」関係>
2019/11/08 ご先祖様達はどうやって北海道に来たのか?
2019/11/28 【小川家】広島県賀茂郡中黒瀬村→(北海道厚岸郡太田村)→北海道厚岸郡厚岸町→広島県呉市→北海道根室郡根室町
2020/07/18 【小川家】広島と北海道を行ったり来たり
2020/06/07 【大竹家】広島県佐伯郡井口村→北海道厚岸郡若竹町
<<妻の家系>>
2020/01/02 【庄司家】秋田県由利郡下川大内村→北海道釧路市桜ヶ丘→釧路市音別町
2020/02/29 【庄司家】新潟県の羽越本線・新発田駅と村上駅の官舎について
2020/01/19 【増井家】新潟県西蒲原郡横戸村→北海道虻田郡弁辺村→釧路市桜ヶ丘
武藤家【福島県東白川郡小爪村(東白川郡棚倉町)】<下がり藤>
2020/01/09 【武藤家】福島県東白川郡小爪村→北海道白糠郡音別村
2020/01/25 【齋藤家】山形県飽海郡山寺村→(北海道十勝郡浦幌村)→(釧路市大字釧路村字茂尻矢)→釧路市川上町
もうひとつの庄司家【山形県南置賜郡米沢山上裏町(米沢市通町)】<不明>
2020/02/09【もうひとつの庄司家】山形県南置賜郡米沢山上裏町(→新潟県岩船郡上海府村)
2020/02/19 【もうひとつの庄司家】庄司家の住んだ地が分かった
以上の姓と地名に何かピンときましたら、コメントいただけると嬉しいです!
【齋藤家】山形県飽海郡山寺村→(北海道十勝郡浦幌村)→(釧路市大字釧路村字茂尻矢)→釧路市川上町
妻の祖母の家系・齋藤家です。
北海道での齋藤家の歴史は少し複雑です。
戸籍上では妻の曾祖母・齊藤志んが昭和28年に山形県飽海郡の戸籍から北海道釧路市川上町に新たに戸籍を作り移住したように読み取れます。
(釧路市川上町の戸籍で齋藤→齊藤になってる。)
この戸籍には志んの夫、つまり妻の曾祖父の名前がありません。
移住前の山形県の戸籍には曾祖父・齋藤岩治の名がありますが、
謎が多いので、妻のお母さんに話を聞いたところ、
齋藤岩治と志んは北海道十勝郡浦幌村の浦幌炭鉱で出会ったそうです。
志んは炭鉱の食堂で働いていたとのこと。
2人は大正7年に結婚しているので、その頃には北海道に移住していたと思われます。
下のリンク先によると
大正7(1918)年、浦幌炭鉱は大和鉱業(株)(平林甚輔)によって開発されました。
とのことなので、
2人は炭鉱が開かれたのと同時に、そこで働くために移住したのでしょう。
妻の家系は炭鉱絡みでの移住が多いですね。
そして2人の間には三男一女(夭折含む)の子供たちがいることが、
山形県の戸籍から分かりますが、この中には妻の祖母・敏子は含まれません。
敏子は釧路市川上町の戸籍に初めて出てきますが、
敏子が生まれた昭和5年には岩治は亡くなっており、戸籍にも父親の記載はありません。
ここでまた妻のお母さんに頼ります。
戸籍をよく見てみると、1ヶ所だけその名が記載されていました。
岩治と志んの長女トヨが16歳で亡くなった際の届出人として、「同居者下屋敷熊五郎」と書かれていました。
なぜ志んと熊五郎は結婚しなかったのか、
なぜ志んは旧姓・庄司に戻らず齋藤のままだったのかは、今となっては分かりません。
(志んの旧姓・庄司と妻の父の家系の庄司が関係あるのかはまだ不明です。)
あと戸籍には出てきませんが、熊五郎には一人連れ子がいたそうです。
その子は岩手県の「日陰茂井」家の養子になったそうです。
日陰茂井という苗字初めて聞きました。岩手県に茂井という地名があって、そこに日陰になっている場所があったので、日陰茂井だそうです。
戸籍から分かる最も古い名は7世の祖父(高祖父の父の父の父)・齋藤三四郎です。
ここから3代三四郎を襲名しています。
ここもややこしくて、一番古い戸籍の戸主は高祖父・齋藤治吉なんですが
その母「さくよ」の欄に「亡父三四郎妻」「亡祖父三四郎長女」、祖母「いの」の欄に「亡祖父三四郎妻」「亡曾祖父三四郎長女」となっています。
治吉-----三四郎
Lさくよ-----三四郎
Lいの -----三四郎
なので、7世の祖父・齋藤三四郎はホントは高祖父の母の母の父で、7世も6世も5世も結婚後に三四郎に改名したのかもしれません。
お墓とか過去帳など調べないとホントのところは分かりません。
<齋藤家直系譜>
齋藤三四郎→齋藤三四郎→齋藤三四郎→齋藤治吉→齋藤岩治/(下屋敷熊五郎)→齊藤敏子→義母→妻
血筋的には齋藤家ではなく下屋敷家になるんですが、戸籍に入っていないため請求できないのが残念です。
【増井家】新潟県西蒲原郡横戸村→北海道虻田郡弁辺村→釧路市桜ヶ丘
妻の父の母の家系・増井家です。
北海道での増井家の歴史は、明治33年に妻の高祖父の父・増井籐八が新潟県から北海道虻田郡弁辺村(現在の豊浦町)に移住したことに始まります。
戸籍から分かる最も古い名は、増井藤八の父・増井重寿計、母・ミネです。
「重寿計」って何と読むのでしょう?「重寿」だけなら「しげとし」「しげひさ」と読むようですけど。
増井藤八が北海道に移住してきた理由は例のごとく、これから調べていきます。
その後、昭和9年に妻の曾祖父・増井信治が妻の曾祖母・ユキノ(旧姓水野)と結婚を期に義兄増井新平の戸籍から分家、同年に妻の祖母・伊美子が生まれます。
太平洋炭鉱で働くためでしょうか?
<増井家直系譜>
増井重寿計→増井藤八→増井丑太郎→増井信治→増井伊美子→義父→妻
あとは妻の母の母の家系・齊藤家で一区切りです。
川崎大師平間寺
厄除けで有名な川崎大師に初詣に行ってきました。川崎大師は通称で、正式には「平間寺」なのです。
パンフレットから抜粋しますと、
平安時代、第75代崇徳天皇の御代(1123〜1141)、平間兼豊・兼乗という武士の親子が無実の罪で生国尾張(今の名古屋地域)を追われ、川崎の地に流れ着き、漁師をしていたそうです。
ある夜夢枕に立った高僧のお告げに従い海に網を投じ、大師の像を引き揚げました。
兼乗がこの像を浄め供養していたところ、高野山の尊賢上人が立ち寄り、この像にまつわる話に感泣しました。そして兼乗と力を合わせて、大治3年(1128)に平間寺を建立しました。
兼乗はこの信仰のおかげで尾張の国に帰任したそうです。
もしかして我が家系と関係あるかも、、と淡い期待を持ちつつ毎年参拝しています。
【武藤家】福島県東白川郡小爪村→北海道白糠郡音別村
妻の母方の家系・武藤家です。
北海道での武藤家の歴史は、大正4年に妻の曾祖父・武藤市郎が梅田モトメと結婚と同時に、福島県東白川郡小爪村から北海道白糠郡音別村に分家したことから始まります。
モトメも福島県のひとです。
分家していますが、市郎の兄の武藤藤之助が同じく音別村で大正4年に亡くなっているし、高祖父・武藤嘉茂之助も20年後ですが同じく音別村で亡くなっているので、皆で一緒に北海道にやってきたのかもしれません。
戸籍上で最も古い名は、高祖父の父の父の父・武藤清右衛門です。
福島県東白川郡の高祖父・武藤嘉茂之助が戸主の戸籍上で、養祖父・武藤清右衛門(高祖父の祖父)の父の欄に「亡曾祖父 清右衛門」と記載されています。高祖父の父の父は襲名したんですね。ややこしいですね。
曾祖父・市郎は音別村(現・釧路市音別町)で4男5女を育てます。次男の昭明が妻の祖父ですが、私が妻と出会う前に亡くなっています。
北海道にやってきた理由はこれから調べていきますが、
明治42年に音別で鉱区を発見、大正7年に尺別炭鉱が開坑しますので、庄司家と同じように炭鉱での仕事を求めて移住してきたのかもしれませんね。
<武藤家直系譜>
武藤清右衛門→武藤清右衛門→武藤粂三郎→武藤嘉茂之助→武藤市郎→武藤昭明→義母→妻
【庄司家】秋田県由利郡下川大内村→北海道釧路市桜ヶ丘→釧路市音別町
妻の家系の庄司家。
北海道での庄司家の歴史は、妻の祖父・庄司六郎が昭和28年に婚姻と同時に秋田県由利郡下川大内村から北海道釧路市桜ヶ丘に新戸籍を設けることで始まります。
六郎が22歳のときです。入植では無いでしょうね。
秋田に仕事がなかったため、今は無き「太平洋炭鉱」で働くために釧路に来たそうです。
戸籍上で最も古い名は妻の高祖父の祖父・源左衛門です。
その長男も源左衛門(1835~1897)を襲名しています。
戸籍は秋田県由利郡葛岡村。葛岡村→下川大内村→大内村→現・由利本荘市となります。
大内町史から、2代目源左衛門が生まれた頃の天保9(1838)年の葛岡村は、巡見使関係資料によると家数71軒、人数345人、馬数89匹だったそう。稲作もしくは林業を営んでいたんでしょう。要調査です。
<庄司家直系譜>
庄司源左衛門→庄司源左衛門→庄司次三郎→庄司源次郎→庄司六郎→義父→妻
【小川家】小川新十郎の話
母方の祖母の家系・小川家についてです。
戸籍で最も遡れたのが、高祖父・小川又次郎の父・小川又兵衛の父である小川新十郎でした。
そこで「小川新十郎」で検索してみたら、以下のページがヒットしました。
なんと「芸藩通志」に小川家についての記載があるとのことでした。
芸藩通志とは1825年(文政8年)に完成した安芸国広島藩の地誌です。
これによると、
小川家:切田村、先祖は小川民部成国、天文の初め、北村に住す
切田村
「芸藩通志」に「もと霧多村と書しといえど、仮字なるべし。慶長中よりの文書皆切田村と見ゆ」とある。
「芸藩通志」によれば、戸数54、人口248、牛20。
村役人一覧
庄屋 小川新十郎(枇杷垣内) 安永9年、文化12年(1829年)
袴御免 小川組平太(枇杷垣内)天保12年袴着用
引受 小川新十郎(枇杷垣内)
庄屋 小川組平太(枇杷垣内)天保2年
割庄屋格 小川組平太(枇杷垣内)文久2年
庄屋 小川禎蔵(枇杷垣内) 安政4年
社倉十人組頭取 藤蔵 文化12年(1829年)
この「枇杷垣内」というのは屋号だそうです。
最近お知り合いになれた、広島県の小川家の方から教えていただきました。
叔母から家系について調べている親族がいると聞いたので、思い切ってお手紙を出してみた所、幸運にも繋がることができました。
その方のお父様(祖母のいとこ)が詳しく調べておられたものを、「小川家の先祖」という数十ページもの冊子にまとめられており、そちらを送って頂きました。
この切田という土地には小川姓がたくさん住んでいるため、屋号で呼び合っていたそうで、高祖父・小川又次郎の父・又兵衛は分家してから「今垣内(イマガーチ)」と名乗っていたそうです。
以下も教えていただいた公文書の内容です。
文政五年二月賀茂郡国郡誌御用旧家書抜辻寄帳によれば
橘姓に而天文之頃小川民部成國霧田村に来住新十郎迄拾代弐百八拾年余子孫相続由緒所持仕候寛永の頃より代々御役相勤申候
芸藩通志「故家」の項によれば
切田村小川氏
先祖小川民部成國天文の初め此の村に住す 第四世の孫清左衛門より世々里職に勤む
芸藩通志「村里」の項によれば
切田村
もとは霧多村と書しといへど假字なるべし慶長中よりの文書皆切田村と見ゆ廣五町餘り袤十五町此の地北は高山東西は平田なり南に黒瀬川あり飛郷一所兼沢村にあり
十七町一段四畝二十四歩 百五十五石
五十四戸 二百四十八人
牛 二十隻
賀茂郡役付諸家名録
切田村 枇杷垣内 小川氏
新十郎
割庄屋格
文化十二年より天保元年まで 切田村庄屋
三升原市立御用懸り
野路引受役
安政六年二月六日歿 嗣子祖平太
本家の小川家は戦国時代から江戸時代、明治の初めまで代々切田村の庄屋をつとめていました。
小川家に代々伝わる家系図によると新十郎が小川家10代目、その先12代前まで遡れています。また、先祖・小川民部成國は太平記にも出てくるある武将に繋がるという言い伝えが残っているそうです。ただ、そのへんは確かなことが言えないためブログでは差し控えます。
ロマンですね。ロマン溢れます。
私から数えると18代前までご先祖の名前が分かったことになります。
平間家もそこまでとは言いませんが、もう少し遡れたらいいなと思い、
この年末を狙って、同姓の方数名にお手紙を出しました。
お正月の話題に上がって、返信もらえる可能性が増えるかもと思ったからです。
そろそろ届いていると思いますが、まだお電話などは頂けていませんね。。
愛川百年旅
私の住む町がこんな動画を公開していました。
故郷ではないので懐かしさはないですが、昔の暮らしが分かり面白いです。
全部見ても30分かかりません。
(私が務める会社もちょびっと出てきます。)